繹史孔門諸子の言行(孔門諸子言行)

孔門弟子の総数と分科

  • (史記より)孔子は詩書礼楽をもって弟子およそ三千人を教え、六芸に通じた者は七十二人(一説七十七人)に及んだ。徳行では顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓、政事では冉有・季路、言語では宰我・子貢、文学では子游・子夏が挙げられ、参(曾子)は魯鈍、由(子路)は粗野、回(顔淵)はしばしば貧窮したが道を外れなかったと評される。
  • (呂氏春秋・淮南子・新序・新論より)孔子は天下を周流し、入門した者三千人、達した者七十人に及び、その教化は市に多様な品物を並べるように各人の資質に応じたものであったと総括する。

衛将軍文子と子貢の人物評(家語・大戴礼記)

  • 衛の将軍文子が子貢に高弟の行いを問うたところ、子貢は自らが直接見た範囲でと断りつつ、顔回(夙興夜寐して礼を尊び過ちを繰り返さない)、冉雍(貧しくとも客のように振る舞い、家臣を借り物のように大切に扱い、旧悪を記憶しない)、仲由(強きを恐れず弱きを侮らない)、冉求(謙虚で老を敬い孤を憐れむ)、公西赤(威儀を弁えた外交の才)、曾参(謙虚で驕らず孝悌忠信を体現する)、顓孫師(功を誇らず民を害さない)、卜商(貴賤に動じず民の利を図る)、澹台滅明(廉潔で下を助ける)、言偃(あらかじめ思慮して事に当たる)、南宮縚(一日に三度「白圭の玷」を復誦する慎み)、高柴(喪に服し礼を厳守する)の各人の徳行を、詩経の句を引きながら評した。
  • 続けて孔子自身が、子貢の見聞を超えて、伯夷叔齊(旧怨を思わない)、趙文子(天を畏れ人を敬う)、隨武子(身を謀り友を忘れない)、銅鞮伯華(多聞にして誕(大言)せず)、蘧伯玉(内は正しく外は寛容)、柳下惠(財を軽んじ怨みを持たない)、晏平仲(君臣互いに道を選び合う)、老萊子(貧にして楽しむ)、介子推(学ばぬことを終身の憂いとする)の徳行を挙げ、さらに晉の祁奚が羊舌大夫の徳(謙虚・信・礼)を評した故事を付す(大戴礼記にほぼ同内容の異文がある)。

顔回(顔淵)の言行

  • 顔回は魯の人、字は子淵。「一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り」ながら道を楽しんだ人物として知られ、二十九歳で髪が白くなり早世した。孔子はその死に「天予を喪ぼせり」と慟哭し、「好学の者は顔回のみ、不遷怒・不貳過であった」と哀公に答えた。
  • 顔回は「成人の行い」「君子・小人の違い」「朋友の際」などを孔子に問い、恭敬忠信を身を保つ要諦として学んだ(説苑・家語)。
  • 貧しくとも仕官を望まず、道を学ぶことを自ら楽しみとした逸話(荘子)、桓山の鳥の鳴き声から生き別れの哀しみを聞き分けた逸話、東野畢の御術の限界を予見した逸話(家語)、農山で子路・子貢と志を語り合い「兵を用いず民を戦わせない王道」を願った逸話などを載せる。
  • 荘子には、孟孫才の母の喪に涙なく哀しまなかったことを問う対話、「坐忘」(体を忘れ知を捨てて大通に同化する境地)を語る対話、「哀莫大於心死」の言葉を含む長い問答、衛への出仕を思いとどまらせる孔子の諫めなど、顔回を通じて説かれる道家的寓話が多数収められている。
  • 顔回の死に際し、魯の定公が弔問した礼、祥(喪明けの祭)の肉を受けて後に食した逸話(礼記)などを載せ、史記・法言・論衡には顔回の早世を惜しみ、孔子への随従によってその名が顕れたことを評する言葉を付す(一部の怪異な附会説は編者按で「不足辯(論ずるに値しない)」と退けられる)。

曾子(曾參)の言行と教え

  • 曾参は南武城の人、字は子輿。孔子より四十六歳年少で、孝道を体得した人物として『孝経』の口授を受けたと伝えられる。
  • (荘子・説苑より)貧窮の中でも節を守り、魯君からの贈邑を「人から受ければ人を畏れる」と固辞した逸話、瓜の根を誤って切ったことで父・曾晳に激しく打たれても平然としていたのを孔子が「これは孝ではなく、舜のように小さな怒りは受け大きな怒りは避けるべきだった」と諭した逸話を載せる。
  • 親への孝を重んじ、老いた両親を思って仕官を求めた逸話、母が指を噛んで危急を知らせたという感応譚(韓詩外伝・捜神記)、生魚を好んだ亡き母を偲んで生魚を断った逸話、妻が藜の羹を生煮えにしたことを理由に去った逸話(家語には七出に当たらぬとする議論も付す)、子を欺かぬために豚を殺して有言実行を示した逸話(韓非子)など、家族に関する多くの逸話を載せる。
  • 『孝経』については、孔子が曾子に「先王の至徳要道」を説いた書として、天子・諸侯・卿大夫・士・庶人それぞれの孝のあり方、諫争(不義には諫めるべきこと)、孝を核とした治世の理、喪礼の要諦などが説かれた経緯を記す(原文は長大な経典であるため、ここでは主題のみを示す。漢書・孝経援神契には成立の由来にまつわる伝説も付す)。
  • 大戴礼記所収の「曾子本孝」「曾子立孝」「曾子事父母」「曾子制言(上中下)」「曾子立事」「天圓」の各篇からは、孝を忠の根本とし諫争と従順の按配を説く教え、君子の交際・言行・修養に関する多くの箴言、「天は円く地は方形」という俗説を退けて陰陽・五行の理を説く自然哲学的議論などが引かれている(原典は長大な訓戒集であるため、ここでは要旨のみをまとめる)。
  • 礼記「曾子問」には、世子誕生の礼、喪と婚礼が重なった際の処置、廟の主(位牌)の扱い、日食や火災など不測の事態が生じた際の祭祀の中止・簡略化の基準、宗子(嫡流)と庶子の祭祀の別など、孔子と曾子の間で交わされた膨大な礼制問答が収められている(老耼=老子の言も引用され、礼の細部にわたる議論であるため、ここでは主題のみを記す)。
  • 黔婁先生の妻が、貧窮の中で正しく生きた夫を「康」と諡することの正当性を曾子に説いた逸話(列女傳)、曾子が孔子の瑟の音を「貪狼の志あり」と誤って評し、実は鼠と狸を追う情景を音に映していたと孔子に説明された逸話(韓詩外伝)などを付す。
  • 曾子は魯人が鄪を攻めた際、鄪君に礼儀を守るよう説き信頼された逸話、斉の景公からの招聘を固辞した際、晏子が「蘭も浸す物次第で香りも変わる、交わる相手・住む場所を慎め」と贈言した逸話(荀子・晏子にも類話)を載せる。
  • 臨終に際し、曾子は「大夫の賜った立派な簀(すのこ)を敷いたまま死ぬのは分に過ぎる」として、瀕死の身でも礼にかなった敷物に取り替えさせてから息を引き取った(禮記・檀弓の「易簀」の故事)。

樂正子春(曾子の門人)の言行

  • 樂正子春は足を痛めて数ヶ月出仕せず、憂色を見せた理由を問われ、「父母から受けた身体を全うすることこそ孝である」との曾子の教えを引いて、わずかな歩みにも孝を忘れぬ心構えを説いた(禮記・祭義)。
  • 母の喪に五日食を断ち「悔いている、母に対して十分な情を尽くせなかった」と述べた逸話(檀弓)、斉が魯に讒鼎(偽物と疑われた鼎)の真贋を問うた際、「贋物を差し出せばよい」との君命に対し「私は自らの信を大切にする」と正直に真物を差し出すよう進言した逸話(韓非子)を載せる。