繹史楚の白公の乱(市南宜僚)(楚白公之亂(市南宜僚附))
子西の人物評と伏線
- (韓非子より)孔子は弟子に「誰か子西の釣名(名声への執着)を導けるか」と問い、子貢が引き受けたが翻意させられなかった。孔子は「子西は白公の難を免れまい。行いを直(実直)にしても欲に曲げられるからだ」と予見した。
- (説苑・淮南子より)屈建は石乞に「白公が下士に礼を尽くしすぎ、身分の規範を超えているのは君子の徳ではなく、むしろ乱の兆しだ」と述べ、十ヶ月後に果たして白公は乱を起こした(両書で人物設定に年代の食い違いがあり、編者按では『孔叢子』が記す晏子の弁と実際の年表が符合しない旨も指摘される)。
- (列子より)白公が孔子に「微言(含みのある言葉)を人と交わせるか」と問うたが要領を得ず、末尾に「白公はついに浴室で死んだ」と結ばれ、後の破滅を暗示する。
沈諸梁(葉公)の諫言
- (国語より)子西が呉にいた王孫勝(白公)を召し戻そうとした際、沈諸梁(葉公子高)は「勝は展(率直)だが不信、愛だが不仁、詐だが知に欠け、毅だが不勇、直だが不衷、周(律儀)だが不淑——六つの徳はいずれも華やかで実がない。父の仇(讒言により殺された太子建)を忘れぬ性分の上に大きな寵愛と力を与えれば、必ず禍を招く」と長々と諫めたが、子西は聞き入れず勝を召して白公とした。
白公の乱と鎮圧
- (左傳より)哀公十六年、白公勝は鄭への復讐を子西にたびたび求めたが果たされず、怒りを募らせて剣を研ぎ、市南の熊宜僚(市南宜僚)を味方に引き入れようとしたが説得できなかった(宜僚は剣を突きつけられても丸弄びを止めず動じなかった、と淮南子は伝える)。秋七月、白公は子西・子期を朝廷で殺し惠王を劫した。子西は顔を袖で覆って死に、子期は木の柱を引き抜いて敵を殺してから死んだ。石乞の「王を弑し府庫を焼くべき」との進言を白公は退けた。白公は王子閭を王に立てようとしたが固辞され、殺された上で惠王を高府に幽閉した。葉公が方城の外から兵を率いて入り、箴尹固らと共に白公を討ち、白公は山で縊死し、従者の石乞は白公の死に場所を明かさず烹刑に処された。事後、葉公(沈諸梁)は令尹・司馬を兼ねて国を鎮め、後に寧・寛に職を譲って葉に隠退した。
忠義に殉じた人々
- (荀子より)葉公子高は小柄で痩身、着物にも負けそうな風貌ながら、白公の乱を鎮めて楚を安定させ、その功は反す手のように容易であった。
- (列子・韓非子より)白公が乱を思案するあまり杖策が頤を貫いても気づかなかった逸話は、「意識の集中が近くの危険を忘れさせる」教訓として引かれる。
- (説苑より)斉人・子蘭子は白公への協力を拒みつつも、共に難に赴いて義を貫き自刎した。
- (新序より)易甲は威嚇にも利益の誘いにも動じず「義を守る士は争わず、死に臨んでも卑しくならない」と拱手して兵を待った。屈廬は「叔父を殺して廬に福を求めるのか」と白公を諭し、白公は剣を収めた。楚人・莊善は母に別れを告げ、公門で自刎して義を貫いた。
- (韓詩外傳・説苑より)孝子として名高い申鳴は、白公に父を人質に取られながらも「すでに君の臣となった以上、忠を尽くさぬわけにはいかない」と白公を討ち、父も死んだ。恩賞を受けた申鳴は「忠と孝を共に全うできぬ身で、どうして生きて士に示しがつくか」と自刎した。
- (新序より)王子閭は白公から王位を強要されても「国を見て主を忘れるのは不仁、白刃に脅されて義を失うのは不勇」と拒み、殺された。葉公はその後、衆を率いて白公を誅し、惠王を国に復した。
- (列女傳より)白公の妻は夫の死後、呉王からの厚遇による再婚の申し出を「貞女は人に色を貸さぬ」と辞退し、「貞姬」と称えられた。
淮南子の評
- (淮南子より)白公は楚国を得ながら府庫の財を民に分けず、石乞の「義に非ずして得たものを施さねば必ず禍を招く」との進言も聞かなかった。葉公は逆に大府の財・高庫の兵を民に分け与えて味方につけ、十九日で白公を捕らえた。「国を我が物にしようとして人にも施さず自らも活かせない」貪愚の極みだったと評す。
荘子に見える寓話
- 葉公子高が斉への使いを前に、成否いずれにせよ患いを免れがたい重責への不安を孔子に問い、孔子は「命(親への愛)と義(君への奉仕)という二つの大戒からは天地の間に逃れようがなく、事の情を安んじて受け容れることこそ徳の至り」と説き、さらに使者としての言葉のやり取りにおける誇張(溢言)の危うさを説いた「乗物以遊心、託不得己以養中」の教えを付す。
- 孔子が楚へ赴いた際、蟻丘の宿で隣家に隠遁する賢者を見つけ、これを「陸沈者」(俗世に埋もれた聖人)と評し、市南宜僚ではないかと推測しつつも、自らを佞人と見て会おうとしないだろうと述べて訪問を控えた逸話。
- 市南宜僚(熊宜僚)が魯侯の憂いに対し、「豐狐文豹が皮ゆえに罠にかかるように、国を持つこと自体が患いの元」と説き、「建徳の国」へ去って道と共に生きることを勧める寓話、また「虚船が触れても怒らないように、己を虚しくして世を渡れば誰も害せない」との比喩を載せる。
- 仲尼が楚に赴いた際、「市南宜僚が丸を弄んで両家の難を解き、孫叔敖が羽扇を手に安眠して郢人が兵を収めた」逸話を引き、「不言の弁」「不道の道」の境地を説く(編者按:孫叔敖と孔子は本来時代が異なる人物であり、これは寓言である旨を付す)。
編者按
葉公諸梁は賢者と言うべきである。あらかじめ白公が必ず乱を起こすことを見抜き、後にはこれを鎮定した。方城の外に身を置きながら国人の望みをつなぎ止められたのは、賢でなければできないことである。圉公陽が王を負って逃れ、箴尹が正を反して賊を除いた末に、王が弑され国が亡ぶ寸前で事なきを得たのは、まさに天が楚を祚(さいわ)いしたゆえであろう。乱れてかえって治まり、危うくしてかえって安んじたのは、まことに異とすべきことである。