繹史衛の荘公・出公父子の国争い(衛莊公出公父子爭國)

太子蒯聵の出奔

  • (左傳より)定公十四年、衛侯(靈公)夫人の南子が宋朝を招き会した際、太子蒯聵は宋の野人に淫らな歌で辱められたことを恥じ、戲陽速に南子暗殺を命じたが、戲陽速は土壇場で実行せず、露見して蒯聵は宋へ出奔した。両者は後に互いに責任を押し付け合った(「民保於信」の諺を引き速の弁明とする)。

輒の擁立と蒯聵の帰国争い

  • 哀公二年、靈公は郊外で子南(公子郢)を後継にと望んだが郢は固辞し、代わりに出奔中の蒯聵の子・輒が立てられた。夫人は「君命により公子郢を太子とする」と伝えたが、郢は「亡命者の子・輒が既にいる以上、自分は継げない」と重ねて固辞し、輒(出公)が立った。晉の趙鞅は蒯聵を戚に送り込んだ。
  • 三年、齊・衛の軍が戚を囲み、蒯聵の復帰を阻んだ(公羊傳・穀梁傳には「父の命を奉じず祖父の命を奉じたのは輒の義」とする議論を載せるが、編者はこれを「大義が悖った説」と評す)。
  • 十一年、衛の大叔疾が孔文子の強要で妻を替えさせられた末に不品行を重ね、宋へ出奔した事件も付随して記す。

孔悝の変と蒯聵の即位(莊公)

  • (左傳より)孔文子の家臣・渾良夫が文子未亡人の孔姫と通じ、戚にいた太子蒯聵と結んで衛への復帰を画策した。渾良夫と蒯聵は女装して孔氏の外圃に潜入し、孔悝(孔姫の子)を脅して盟わせ、公宮を制圧した。子路(仲由)はこの変に駆けつけ「君子は死しても冠を免れず」と述べて冠の紐を結び直しながら討ち死にした。仲尼は「柴(子羔)は逃れたが由(子路)は死ぬだろう」と予見していた。
  • 孔悝は蒯聵(莊公)を立てた。莊公は旧臣を除こうとし、瞞成・褚師比は宋へ出奔した。
  • (禮記・祭統より)孔悝の鼎銘には、孔氏の祖・莊叔以来、成公・獻公に仕えた功績が刻まれていたことを載せる。

莊公の末路

  • 莊公は孔悝を平陽で饗し厚遇したが、伯姫・良夫らとの確執が続き、渾良夫は「三つの罪」(僭越な衣装・剣を帯びたまま食事・大子と密議した罪)を理由に処刑された。
  • 十七年、晉の趙鞅は「蒯聵を晉に送り返さねば志父の恥辱」として衛を攻めた。莊公は北宮で不吉な夢を見、卜占も凶と出た。冬、晉軍が再度衛を攻め、衛人は莊公を追放して般師(襄公の孫)を立てた。
  • 莊公は城を出て逃れる途中、股を折る負傷をし、戎州の人々に襲われた。かつて莊公が戎州の女の髪を奪って夫人の鬘としたことへの恨みから、璧を差し出して助命を乞うたが、已氏に「璧を奪ってどこへ行く」と殺された。
  • その後、般師・公子起・輒(出公)が次々と衛侯の地位をめぐり交替し、二十五年には出公が褚師聲子の非礼を怒ったことに端を発する内紛で再び宋へ出奔、悼公が越の後ろ盾で立てられるなど、衛の内乱は長く続いた。
  • 衛の出公が城鉏から子贛(子貢)に弓を送り「自分は復帰できるか」と問うた際、子貢は「かつて成公・獻公はいずれも忠臣の周旋によって復位したが、今の君にはそのような臣がいない」と暗に忠告した。

附載の逸話

  • (孔叢子より)衛の将軍文子が孔子に「魯の公父氏は獄を裁くのが上手いか」と問い、孔子は「礼をもって民を斉えれば恥を知り、刑をもって斉えれば懼れるのみ」と、礼治の要諦を轡と鞭に喩えて説いた。
  • (戦国策より)犀首(公孫衍)が黄を伐った際、衛が贈り物で媚びようとしたが、南文子は「勝敗いずれの場合も衛を攻める理由がない」と看破し、衛への侵攻を未然に防いだ逸話を付す。

編者按

衛靈公の無道により宮中は乱れ、夫人南子の淫行は「桑中」「有狐」の詩の風刺以上に甚だしかった。太子蒯聵はこれを恥じて除こうとしたが謀は拙く自ら身を滅ぼした。靈公の死後、庶子の郢は継承を固辞し、亡命者の子・輒が立ったが、父の帰国を拒んで兵を構えたのは、穀梁氏の「祖父の命を尊ぶ」との弁護があっても、天下に父無き国があってよいはずがない。南子の才智は人心を惑わし、朝臣もこれに加担した。蒯聵の出奔は「殺母」の汚名と「厳君の命」により長年帰れず、国人はその存在すら忘れ、輒が祖父の名を借りて即位するに至った。以後、出公(輒)十三年、莊公(蒯聵)二年、再び出公という具合に父子は互いに国を逐い合い、ついに蒯聵は已氏に殺され、輒も越で死んだ。これらはみな靈公の乱命が招いた禍である。衛国の混乱は三代・二十余年にわたって鎮まらなかった。孔子が「必ずや名を正さん」と急いだのも、まさにこの故であろう。