繹史外記(外記)

栄啓期の三楽

  • (列子より)泰山で鹿裘に縄帯で琴を弾き歌う栄啓期に楽しみの理由を問うと、人として生まれたこと、男として生まれたこと、九十歳まで生きたことの三つを挙げ、貧しさも死も人の常であるとして憂えないと答えた。孔子はこれを「自ら寛げる者」と評した。

林類の達観

  • (列子より)百歳近くで畑の落穂を拾いながら歌う林類に子貢が理由を尋ねると、若くして励まず年老いても妻子なく死期が近いことこそ楽しみの因であり、生と死は往還にすぎないと答えた。孔子はこれを「言うことはできても実践し尽くせてはいない」と評した。

呂梁の泳ぎ手と鮫捕り

  • (荘子より)呂梁の激流を悠々と泳ぐ男に道術を尋ねると、故(生来の慣れ)に始まり性(本性)に長じ命(自然)に成るのみで、水の道に従い私心を用いないためだと答えた。同様の話として、激流を渡り切った男が「忠信を以て身を波流に任せた」ことを理由に挙げ、孔子は「水にすら忠信で臨めるのに人に対してはなおさらだ」と弟子に説いた。

傴僂丈人の蝉捕り

  • (荘子より)竿先で蝉を掬うように容易く捕える傴僂の老人に技を問うと、五六月に丸めた球を重ねて落とさない訓練を重ね、心を蝉の翅にのみ集中させると答えた。孔子は「志を分けず精神を凝らす」好例として弟子に紹介した。

商の太宰の問い

  • (荘子・韓非子より)商の太宰に「聖人か」と問われた孔子は「聖人ではなく博学多識なだけ」と謙遜し、三王・五帝・三皇もそれぞれ智勇・仁義・時運に長けた者に過ぎず、真の聖人とは「治めずして乱れず、言わずして信ぜられ、化せずして自ら行われる」西方の人(老子を暗示するとされる)であろうと答えた。太宰はこの答えに戸惑ったと伝わる。

温伯雪子との出会い

  • (荘子より)中国の君子は礼義に明るいが人心を知るに疎いとして面会を渋った温伯雪子に対し、孔子は会っても一言も発しなかった。子路がその理由を問うと、「あの人物は目を合わせただけで道が体現されており、言葉を交わす余地がない」と答えた。

兀者王駘の徳

  • (荘子より)刖足の刑を受けた王駘のもとに孔子と並ぶほど多くの門人が集まることを常季が訝ると、孔子は自らも王駘を師と仰ぎたいとし、死生の変化にも動じず万物を斉しく見る境地、静止した水にこそ人が己を映す道理を説いた。

兀者叔山無趾との問答

  • (荘子より)刖足の叔山無趾が孔子に会いに来た際、孔子が「もっと早く慎むべきだった」とやや冷たく応じると、無趾は「足より尊いものを全うするために来た」と答え、孔子は自らの狭量を恥じて教えを請うた。後に無趾は老耼に、孔丘はいまだ生死を一つに見る至人の境地に達していないと評したという。

子桑虖との対話

  • (荘子より)度重なる苦難(魯を逐われ、宋で樹を伐られ、衛で迹を削られ、陳蔡で囲まれる等)を嘆く孔子に、子桑虖は「利で結ばれた交わりは窮すれば離れ、天性で結ばれた交わりは窮しても離れない」ことを、假人が千金の璧を捨てて赤子を抱いて逃げた故事で説き、「君子の交わりは水のように淡く、小人の交わりは醴のように甘い」と教えた。孔子はこれに深く感じ入り、学を絶ち書を捨てて弟子への愛情をいっそう深めたという。

漁父との問答

  • (荘子より)杏壇で琴を弾く孔子のもとに現れた白髪の漁父が、子貢・子路との問答を経て孔子と対面し、「仁義礼楽で人を治めようとするのは、天子・諸侯・大夫・庶人それぞれの本分を超えた越権であり、人の八つの疵と四つの患いを免れていない」と厳しく批判した。孔子は謙虚にこれを聞き入れ、「真」(精誠の至り)こそ天から受けたものであり礼俗に拘束されないものだと教えられ、深く感謝して弟子入りを願ったが、漁父は「道を共にできる者とだけ行くべきだ」と諭して船を漕ぎ去った。子路が漁父への孔子の丁重すぎる態度を訝ると、孔子は「賢者を敬わぬのは不仁であり、道のあるところに聖人は必ず敬意を払う」と答えた。

盗跖への説得の失敗

  • (荘子より)友人柳下季の弟で天下の害をなす盗跖を教化しようと、柳下季の制止を聞かずに孔子は自ら赴いた。盗跖は孔子を「巧偽の徒」と罵り、封侯や富貴の説得を「利で釣ろうとする浅ましい魂胆」と一蹴し、黄帝・堯・舜・湯・武王から伯夷叔斉・鮑焦・介子推・尾生・比干・子胥に至るまでの聖賢・忠臣の末路を挙げて、名声のために本性や寿命を損なう生き方を厳しく否定した。孔子は答えることもできずすごすごと立ち去り、柳下季に「無病にして自ら灸を据えるようなもので、虎の頭を撫で髭を編むような危うさであった」と述懐した。