病中の様子
- (公孫尼子より)病を得た孔子を哀公が遣わした医者が診察し、居所や飲食の節度(夏冬で住まいを変え、飲酒に酔わず等)を聞いて「良医と同じような自己管理をしている」と評した。
- (荘子より)病中も子貢が占いに出ようとするのを制し、「座席も居所も飲食も日頃から斎戒祭祀のように慎んできたのだから、占いはすでに久しくしてきたようなものだ」と述べた。
- (論衡より)病中に商瞿が占って「日中に治る」と出た際、孔子は「その日まで書物を持ってこさせよ」と述べ、死を目前にしても学ぶことをやめない姿勢を示した。
死の予兆と最期
- (禮記より)早朝、杖を引きながら門のあたりを逍遥し、「泰山その頽れんか、梁木その壊れんか、哲人その萎えんか」と歌い、部屋に入って戸に向かって座った。これを聞いた子貢が病を案じて駆けつけると、孔子は夏殷周それぞれの殯(かりもがり)の位置の違いを説き、自らが殷人の子孫であることと、前夜に両楹(座敷の柱)の間に座して奠を受ける夢を見たことを語り、「明王が興らぬ今、天下の誰が我を宗と仰ごうか、私はまもなく死ぬだろう」と述べた。それから七日臥床して没した。
哀公の誄と評
- (左傳・禮記より)哀公十六年夏四月己丑、孔丘は卒した。哀公は「旻天憐れまず、一老を余に遺すことを憖んぜず、余一人を屏(たす)けて位に在らしめず、煢煢として余は疚みに在り、ああ哀しいかな、尼父よ、自ら律する(模範とする)者なし」と誄した。子贛(子貢)はこれを聞き、「君は魯で終わりを全うできないのではないか。夫子はかつて『礼を失えば昏く、名を失えば愆つ』と言われた。生前に用いることができず、死してから誄するのは礼ではなく、一人(諸侯の自称)と称するのも名に外れる。君はこの両方を失っている」と評した。
喪の礼
- (禮記より)門人たちは孔子の喪に際し、集まっているときは絰(喪の飾り)を身につけ、外出時には外すという特別な扱いをした。子貢は、顔淵の喪には子を喪うが如くして正式な喪服は着けず、子路の喪でも同様にしたことを踏まえ、孔子の喪には父を喪うが如くしつつ正式な喪服は着けないという扱いを提案した。公西赤が喪の実務(棺の飾り、翣・披・崇・綢練・旐など夏殷周三代の礼を併せ用いること)を取り仕切った。魯城北の泗水のほとりに葬られ、墳墓は馬のたてがみのような形(偃斧形)に築かれた。
弟子たちの服喪と孔里の由来
- (史記より)弟子たちは皆三年の心喪に服し、喪が明けると互いに別れを惜しんで去ったが、子貢だけは墓のかたわらに廬を建てて六年にわたり喪に服し続けた。弟子や魯人で墓のそばに移り住んで家を構えた者は百余室に及び、この地は「孔里」と呼ばれるようになった。魯の人々は代々季節ごとに孔子の墓を祀り、儒者たちも郷飲酒・大射の礼をこの地で講じた。旧宅は廟となり孔子の衣冠・琴・車・書が漢代に至るまで二百余年伝えられ、高祖劉邦も魯を通った際に太牢の礼で祭った。
太史公の賛
- (史記より)司馬遷は「高山仰止、景行行止」の詩句を引き、直接会うことは叶わずとも心から慕う思いを述べ、孔子の廟堂・車服・礼器や、儒生たちが今なお礼を講じる様子に深く心を動かされたと記した。天下の君王・賢人の多くは当時こそ栄えても没すれば忘れられるが、布衣の身であった孔子の教えは十余世にわたり学者に宗とされ、天子・王侯から六芸を語る者に至るまでその教えを規範とすることから、「至聖」と呼ぶにふさわしいと結んだ。
編者按(孔子の生涯を振り返る長文の論評)
- (編者按)孔子は魯に生まれながら世に用いられず、定公だけがひととき用いたもののそれも全うされず、列国を周遊してもいずれの国にも用いられぬまま魯で老いて生涯を終えた、聖人の窮まりであった。定公十年の夾谷の会では、斉が魯の孔子登用を恐れて態度を変えたほどであり、孔子は礼を尽くしつつ義を正して斉の脅しを退け、外交と武備を兼ね備えた対応で斉の君臣を心服させた。中都宰から司空、大司寇、摂相へと進み、政治を行えば風俗が改まり商取引にも欺きがなくなるほどであったが、三桓(季孫・叔孫・孟孫)の勢力を制しようとした三都破却は彼らの警戒を招き、内には陪臣の叛乱、外には隣国の脅威という状況の中、斉は謀って女楽を魯に贈り、季桓子はこれに惑わされ、ついに孔子は魯を去った。その後、衛・鄭・曹・楚を巡り、匡で畏れられ、宋で難に遭い、陳蔡の間で窮するなど、いずれも已むを得ぬ苦難であった。孔子が終始去りがたく思っていたのはひとえに父母の国(魯)であり、数年にわたり各国を巡って賢君を求めたが、ついに魯人に再び召されても用いられることはなかった。天下が自分を用いないことを悟った孔子は、詩書を修め礼楽を正し易を賛じ春秋を作り、まもなく世を去った。この時期、哀公は微弱で三桓の勢力はいよいよ強まり、田賦の導入も陳恒の弑逆の討伐も意のままにならず、ただ寂しく哲人を悼む誄を残すのみであった哀公の不振ぶりは、昭公・定公にも及ばぬものであった。もし孔子が帝であったなら堯舜に劣らぬ聖であり、王であったなら湯武に劣らぬ賢であり、宰相であったなら稷契や伊尹・周公に劣らぬ功業を成し得たであろうが、百王の規範を垂れ万世に法を残す使命を天から授かった孔子は、もとより一国の魯だけが私することのできる存在ではなかったのであり、魯が孔子を用いなかったこともまた必然であったと結論づける。
先聖年譜への導入
- 巻末には「先聖年譜」の見出しが置かれ、『史記』『家語』を主軸に『闕里志』『素王事紀』『先聖大訓』等の諸書を参照して孔子の事跡の年代を定めたこと、諸説に異同がある場合は最も古い『史記』を基準としたこと、また子路が孔子より九歳年少であるとする史記の記述に従い、旧来の年譜の誤りを正したことなどが凡例として記される(年譜の本文は次の巻に続く)。