繹史哀公の問い(哀公問)

儒服と儒行

  • (禮記・儒行より)哀公が儒者の服装を問うと、孔子は服は住んだ土地の習俗によるもので、学問の広さこそ儒者の本質だと答えた。続いて儒行を問われた孔子は、自立・容貌・備豫・近人・特立・剛毅・自立(仕官)・憂思・寛裕・挙賢・任挙・特立独行・規為・交友・尊譲など十数の徳目にわたり、儒者が貧賤に屈せず富貴に驕らず、信義を貫き死を賭しても節を曲げないあり方を長大に説いた。孔子は最後に、この話を聞いた哀公が以後「儒」を戯れの言葉にしないと誓ったと結ぶ。

五等の人物(庸人・士人・君子・賢人・聖人)

  • (家語より)魯国の人材登用を問う哀公に、孔子は真の賢者とは古の道に志しつつ今の世に生きる者だと説き、人には庸人・士人・君子・賢人・聖人の五等があるとして、それぞれの特徴(庸人は定見なく物に流される、士人は自ら守るところを持つ、君子は忠信仁義を身につけ言動が一貫する、賢人は徳が万人を化す、聖人は天地と徳を合わせ変化に窮まりない)を順に説いた。

五儀の教えと哀・憂・労・懼・危

  • (家語より)哀公が自らの境遇では五儀の教えを行いがたいと嘆くと、孔子は廟に入って先祖の遺物を見れば哀を知り、朝政に臨めば憂と労を知り、亡国の跡を望めば懼を知り、君は舟・民は水であり水は舟を覆しもすると悟れば危を知る、と具体的な省察の方法を示した。

為政の九経

  • (家語より)哀公の問いに、孔子は文武の政も人が絶えれば廃れるとし、政は人を得ることに在り、修身は仁・親親・尊賢に基づくと説いた。天下の達道(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)と達徳(智仁勇)を挙げ、天下国家を治める九経(修身・尊賢・親親・敬大臣・体群臣・子庶民・来百工・柔遠人・懐諸侯)とその具体策を詳述し、誠を尽くすことが天の道であり、誠に至ろうとするのが人の道であると結んだ。

人材登用の見極め

  • (説苑・荀子より)哀公の「どのような人物を用いるべきか」との問いに、孔子は「巧言で媚びる者・我意を通そうとする者・口先だけ鋭い者」を退けるべきだとし、弓や馬と同様、まず忠信重厚であることを確かめてから知能を求めるべきだと説いた。

小国を守る道・富且寿の政

  • (家語より)小国が大国から身を守る道を問われた孔子は、朝廷に礼があり上下が親しみ合えば、天下の民はみな君の民となり攻める者もいないと答え、哀公は山沢の禁や関市の税を緩めた。また政の急務は民を富ませ長寿にすることだとし、力役を省き租税を薄くすれば富み、礼教を篤くし罪を遠ざければ長寿になると説いた。

反身而治

  • (呂氏春秋より)「国家を治めるのは堂上だけで足りる」との言を迂遠と評した哀公に、孔子は身に得たものは人に及び、身を失えば人も失う、己を反省することこそ天下を治める要だと答えた。

大礼と婚姻の重み

  • (禮記・哀公問より)大礼を問われた孔子は、礼こそ民の生きる根本であり、天地の神事・君臣長幼の別・男女親族の交わりはすべて礼によって定まると説いた。昔の君子は質素な衣食住で民と利を同じくしたが、今の君子は貪欲で礼を行わないと嘆いた。さらに人道の大なるものは政、政の要は夫婦・父子・君臣の正しい関係にあるとし、これを実現する婚姻(大昏)の礼を「已に重すぎる」と訝る哀公に、天地が合わずして万物が生じないように、婚姻は万世の嗣ぎとして軽んじられぬと諭した。

敬身と成親

  • (禮記・哀公問より)孔子は、三代の明王は妻子を敬い、わが身を敬うことが親を敬う根本だと説いた。君子が言葉と行動を慎めば民は命じずとも敬い従い、これがわが身を敬い、ひいては親の名を成す(親を君子の親たらしめる)道であるとした。また仁人・孝子は「物の理を過ぎない」ことを貴ぶとし、天道に倣って親に事えるべきだと結んだ。

尚齒(高齢者を敬う)の教え

  • (家語より)大夫たちが高齢者を重んじるよう勧める理由を問う哀公に、孔子は虞夏殷周いずれの盛王も高齢者を敬った故事を挙げ、朝廷・道路・郷里・狩猟・軍旅のあらゆる場で年長者を敬う制度(悌)が行き渡ることが、天下を治める根本だと説いた。

三死は命にあらず

  • (家語より)智者・仁者の長寿を問われた孔子は、人には天命でない三つの死に方(生活の不節制による病死、上を犯し欲望に限りない者の刑死、弱を侮り力を量らぬ者の兵死)があるとし、身を節し義に従って動けば長寿を得られると説いた。

孝と貞の真義

  • (家語より)「子が父命に従うのを孝、臣が君命に従うのを貞と言えるか」との三度の問いに孔子が答えなかったことを訝る子貢に、孔子は、争臣(諫める臣)や争子(諫める子)があってこそ主君や父の過ちを防げるのであり、ただ従うだけを孝・貞とは呼べないと諭した。

冠服の効用

  • (家語より)礼服が仁に益するかを問う哀公に、孔子は喪服・礼服・甲冑がそれぞれ人の心を悲哀・端正・勇猛へと自然に導く効用を持つと答えた。

舜の冠より為政の大本

  • (家語より)舜の冠の形を問う哀公に孔子は即答せず、まず政の大本(好生悪殺・任賢替不肖の政)を語るべきだとし、徳が四海に及んで鳥獣までも懐くのは、ひとえに生を好む政治の結果だと説いた。

三朝記七篇の教え

  • (三朝記より)孔子が哀公に三度朝見して答えた七篇の政論が伝わる。「千乘」では仁政・宗廟の礼・四佐(司徒・司馬・司寇・司空)の職掌など国家統治の要諦を、「四代」では四代の政刑を軽々に模倣すべきでなく規矩準縄のような普遍の法に則るべきことを、「誥志」では祭祀の礼と時に応じた政事により怨みと乱を防ぐ道を、「小辨」では枝葉の弁舌より治政の実を優先すべきことと忠信の九つの知(知忠・知中・知恕・知外・知徳・知政・知官・知事・知備)を、「用兵」では兵は本来乱を禁じ暴を止めるためのものであり無徳の君が民を苦しめれば天が災いを下すことを、「少閒」では君臣が互いに情を尽くし五代の聖王が異なる基準で人を取りながらも徳によって天下を治めた史話を、「虞戴德」では天・地・人の三徳に基づく礼制と父子君臣の道を、それぞれ説いた。

衆議の落とし穴

  • (韓非子より)「衆議しても国がますます乱れる」と嘆く哀公に、孔子は、群臣がみな季孫氏に同調して一様になっているのが原因であり、明主のもとでは臣下の意見が分かれてこそ正しい議論ができると答えた。

忘れることの甚だしさ

  • (説苑より)「妻を忘れて置き去りにした者がいる」との話に対し、孔子は、それより甚だしいのは己の身を忘れることだとし、夏の桀が禹の道を捨てて滅んだ例を挙げた。

夔一足の寓話

  • (韓非子・孔叢子より)「夔(がく官)には足が一本しかなかったのか」との問いに、孔子は「一而足(一人で十分足りる)」の意であって身体の足ではないと説き明かした。

博打を好まぬ理由

  • (説苑より)「君子は博打をしないと聞くが」との問いに、孔子は、博打には二つの采(さいころ)があり悪しき道につながるため、君子は悪を憎むこと甚だしいのだと答えた。

東に益宅の不祥

  • (新序より)「東に宅を広げるのは不祥と聞くが」との問いに、孔子は、不祥は五つあり(人を損ない己を益すること、老を棄て幼を取ること、賢を捨て不肖を用いること、老幼が学ばぬこと、聖人が隠れること)東に益宅することはその中に含まれないと答えた。

命と性、婚姻の礼

  • (家語より)人の命と性の別を問われた孔子は、道から分かれたものを命、一に形をなしたものを性と説き、人の成長段階(視覚・食・歩行・言語・生殖能力の獲得時期)を詳述した。続いて男女の婚姻適齢や、女に嫁がせぬべき五つの条件・妻を去らせる七つの理由と去らせない三つの場合など、婚姻の礼を細かく説いた。

父の葬に殊礼を用いぬ理由

  • (喪服要記より)父の葬に表門・菰廬・五穀嚢・掛樹・魂衣・桐人・三桃湯といった特殊な葬礼を設けるべきかを一つずつ尋ねる孔子に対し、哀公は、それぞれの由来(禹・泰伯・伯夷叔斉・介子推・羊角哀・虞卿・衛霊公の女など)を説明したうえで、父にはそれらの故事に当たる事情がないため用いないと答えた。

哀駘它の寓話

  • (荘子より)容貌醜悪ながら人を惹きつけてやまない衛の哀駘它について問う哀公に、孔子は「才全にして徳形れざる」者、すなわち死生窮達などの変化に心を乱されず、内に和を保ちながら外に誇示しない徳の持ち主であると説いた。哀公はこの話を聞き、自らを至通と自負していたことを恥じ、孔子を君臣ではなく徳友と呼んだ。

編者按

  • (編者按)儒行篇の内容は誇張が甚だしく、先儒の中には孔子自身の言葉ではないと疑う説がある。
  • (編者按)九経を説く段は、『中庸』の記述とやや異なる。
  • (編者按)「千乘」以下の七篇はいずれも『大戴礼』に収められ、劉向の別録によれば孔子が哀公に三度まみえて政を問答した記録とされる(『漢書』にいう「孔子三朝七篇」)。
  • (編者按)東に益宅を問う説話は、『論衡』『淮南子』にも西に益宅を問う類話として伝わり、この話と先後が食い違う。
  • (編者按)命と性を説く段は、『大戴礼』では哀公との問答という形を取らず、婚姻に関する末尾部分(喪服四制に重複する箇所)も割愛されている。