繹史諸国を歴訪する(歷聘)

衛への初訪

  • (史記より)孔子は魯を去り、子路の妻の兄顔濁鄒の家を頼って衛に入った。衛霊公は魯での禄高を尋ね、衛でも同額の粟六万を与えたが、やがて讒言により監視されるようになり、孔子は罪を得ることを恐れて十月ほどで衛を去った。

匡での包囲

  • (史記・韓詩外伝・荘子より)陳へ向かう途中、匡の人々が孔子を、かつて自分たちを暴虐した陽虎と誤認して包囲した。五日に及ぶ包囲の中、孔子は「文王すでに没するも、文はここに在らずや。天がこの文を喪ぼさぬ限り、匡人が我を如何にせん」と動じず、弟子には詩書礼楽を絶やさぬよう説いた。子路が武器を取ろうとするのを止め、歌を交わすうちに囲みは解けた。誤解と分かって囲みの兵は詫びて去った。

南子との面会と衛からの退去

  • (史記より)衛に戻り蘧伯玉の家に主し、霊公夫人南子の求めに応じてやむなく面会した。子路が不満を示すと、孔子は「非礼あらば天これを厭わん」と誓った。後日、霊公が夫人と同車し宦者を陪乗させて市中を行くのを見て、孔子は「徳を好むこと色を好むが如くする者を見ず」と醜として衛を去った。

宋での桓魋の迫害

  • (史記・家語より)曹を経て宋に至り弟子と大樹の下で礼を習っていたところ、宋の司馬桓魋が孔子を殺そうとして木を抜いた。孔子は「天、徳を予に生ぜり、桓魋それ予を如何にせん」と動じず立ち去った。宋君との間には国を治める要諦(隣国と親しめば国を保ち、無辜を殺さねば民惑わず等)を説いた問答も伝わる。

鄭での「喪家の狗」

  • (史記・韓詩外伝より)鄭で弟子とはぐれ独り城門に立つ孔子を、人々は「喪家の狗(葬家の犬)のようだ」と評した。子貢からこれを伝え聞いた孔子は、容貌の評は末事だとしつつ「然り、然り」と笑って認めた。

陳での淩陽台

  • (孔叢子より)陳恵公が台を築くにあたり、処刑された者が数十人に及んだと聞いた孔子は、周の文王が霊台を築いた際は誰も罰せられなかった故事を引いて恵公を諫め、恵公は密かに捕えていた官吏を赦した。

蒲での抑留と盟約

  • (史記より)陳から去る途中、蒲で公叔氏の叛乱に巻き込まれ抑留された。弟子公良孺が奮戦し、蒲人は「衛に行かない」との盟約と引き換えに孔子を解放した。孔子は衛へ向かい、子貢の「盟約に背くのか」との問いに「強要された盟いは神も聞き入れない」と答えた。衛霊公との間には蒲討伐の可否を巡る問答も伝わる。

佛肸の招きと堅白の譬え

  • (史記より)中牟で叛いた佛肸が孔子を招いた際、子路は佛肸の不義を理由に反対したが、孔子は「堅くして磨いても磨り減らず、白くして染めても黒くならない、瓠瓜のようにぶら下がっているだけの存在ではない」と答えた。

竇鳴犢・舜華の死と黄河での引き返し

  • (史記・新序・水経注・孔叢子より)趙簡子に招かれ黄河まで至ったが、簡子が賢大夫竇鳴犢・舜華を利用した後に誅殺したと聞き、「麒麟は郊に至らず、蛟龍は合わず、鳳凰は翔けず」の譬えを引いて「君子は同類の傷つくのを忌む」と述べ、河を渡らず引き返した。その悲しみを陬操(一名槃操)等の琴曲に託したという。

桓子の遺言と冉求の招聘

  • (史記より)魯哀公三年、孔子六十歳。病床の季桓子は魯城を望んで、孔子を用いなかったことを国が興らなかった理由として悔い、後継の康子に孔子を召すよう遺言した。しかし公之魚の反対により、代わって冉求が召された。孔子は「魯人が求を召すのは、いずれ大いに用いるためだろう」と述べ、帰国への思いを歌に託した。

葉公との政治問答

  • (史記・墨子より)葉から蔡に赴く途上、葉公が政を問うと孔子は「遠き者を来たらしめ、旧き者を新たにすること」と答えた。また子路が孔子の人柄を問われて答えなかったことを聞き、孔子は自ら「学びて厭わず、憤りを発して食を忘れ、楽しみて憂いを忘れ、老いの至るを知らず」と評した。

隠者との遭遇

  • (史記より)長沮・桀溺という二人の隠者に子路が渡し場を尋ねると、二人は世を避ける生き方を説き耕作を続けた。孔子は「鳥獣とは群れを共にできぬ、天下に道があれば丘は変えようとしない」と述べた。荷蓧丈人との遭遇でも同様に隠者の風が伝えられる。

楚の安車の贈与を辞す

  • (孔叢子より)楚昭王が宰予を通じて安車を贈ろうとしたが、宰予は孔子の質素な人柄を理由に固辞した。昭王がさらに何を望むかと問うと、孔子は道を行える君があれば徒歩でも仕えると答えたと伝わる。

陳蔡の間の絶糧

  • (史記・韓詩外伝・荀子・荘子・呂氏春秋・説苑・孔叢子ほかより)陳蔡の大夫が孔子の登用を恐れて包囲し、七日間食を絶つ窮地に陥ったが、孔子は弦歌を止めなかった。子路・子貢の動揺に対し「君子固より窮す、小人窮すれば濫る」「予は一以て之を貫く」と答え、顔回だけは終始師の道を疑わなかった。この窮境をめぐっては、賢者が時に遇わぬ故事(伊尹・呂望・百里奚ら)を引く異伝、顔回が米を盗み食いしたと疑われた異伝(子貢の誤解、孔子は疑わなかったとする)、子路が豚を煮て食したかを問う異伝など、多数の伝承が残る。

楚昭王の招聘と令尹子西の反対

  • (史記より)子貢の要請で楚昭王は軍を興して孔子を迎え、窮地を脱した。昭王は書社の地七百里で孔子を封じようとしたが、令尹子西は、子貢・顔回・子路・宰予のような人材を擁する孔子が周公の業を明らかにすれば楚の存立が危うくなると諫め、これを止めた。同年、昭王は城父で没した。

芻狗の譬え

  • (荘子より)師金は顔淵に対し、孔子の周遊を「すでに供え終えた芻狗(藁の犬)を再び用いようとするようなもの」に喩え、時勢に応じない礼法への固執が禍を招いたと評した。

衛での正名論

  • (史記より)衛君輒の招きに応じるにあたり、まず何をなすべきかを問う子路に、孔子は「必ずや名を正さん」と答え、名実が一致しなければ言も事も成らず、礼楽も刑罰も機能しないと説いた。

冉有の武功と孔子の評価

  • (史記より)冉有が季氏の将として斉軍を破り、季康子に兵法を「孔子に学んだ」と答えた。康子が孔子を召そうとすると、冉有は「小人にこれを妨げさせなければよい」と勧めた。

魯への帰還

  • (左伝・史記・家語より)哀公十一年、孔文子の求めに応じなかったことなどを経て、魯人が幣帛をもって孔子を迎え、十四年ぶりに魯へ帰った。

猗蘭操・丘陵歌

  • (琴操・孔叢子より)諸侯に用いられず衛から魯へ戻る途中、幽谷に独り咲く香蘭を見て自らの不遇を嘆いた「猗蘭操」、泰山を望んで作った「丘陵歌」が伝わる。

遍歴の総括

  • (史記・説苑・韓詩外伝より)孔子は十四年にわたり魯を離れ、乱世を憂い道徳を天下に広めようとして各国を周流したが、当世の諸侯に用いられることはなかった。

編者按

  • (編者按)孔子が宋君と交わした問答は、説苑では「梁君」の話として伝わる異伝がある。
  • (編者按)竇鳴犢・舜華の名は、新序・家語などで竇犨鳴犢や慶華など表記に異同がある。
  • (編者按)呂氏春秋の伝える「顔回が甑の飯をつまみ食いしたのを孔子が見て試した」との話について、疑いを持って賢者を試すのは聖人が賢者に接する態度ではなく、家語に見える後日談はおそらく後人の付会であろう。
  • (編者按)孔叢子が引く墨子の「陳蔡の厄の際、子路が豚を煮て食した」との説話は、子路の人柄からして道に外れた肉を問わず食べるとは考えにくく、そもそも「厄」の実態(沽酒も藜羹も乏しかった)と矛盾しており、事実とは考え難い。
  • (編者按)荘子に見える太公任が孔子を弔う説話や、捜神記の大鯷魚の怪異譚、衝波伝の「九曲の珠」の説話は、いずれも寓言・荒唐無稽な作り話であり、事実として扱うべきではない。
  • (編者按)荘子の芻狗の譬えは寓言としてその趣旨を述べたものであり、ことさら孔子を誹謗する意図によるものではない。
  • (編者按)猗蘭操・丘陵歌はいずれも後人の擬作と考えられる。
  • (編者按)孔子が陳で帰国を思った言葉は、本来一度限りの発言で論語・孟子にそれぞれ一箇所ずつ見えるにすぎないが、『史記』世家がこれを前後二度に分けて引用したのは誤りと思われる。