若い頃の貧賤と職歴
- (史記より)孔子は若くして貧しく身分も低かったが、長じて季氏の史(会計係)を務め計算を正確にし、また司職吏(家畜係)を務めて家畜を繁殖させた。
季桓子の禄米を受け貧者に分配
- (呂氏春秋より)季孫氏が公室の権を奪う中、孔子がその術策を諭そうとすれば疎んじられるため、養いを受けつつ魯国の政について説いた。ある人は孔子を「清濁いずれにも安住できない螭(怪物)」に喩え、功を立てようとする者は常道どおりにはいかないものだと評した。
陽虎の専横と孔子の不仕
- (史記より)季桓子の寵臣仲梁懐と陽虎が不和になり、陽虎は桓子を幽閉して盟わせるまでに至った。陪臣が国政を執る乱れた状況の中、孔子は仕官せず、退いて詩書礼楽を修め、弟子はますます増えた。
公山不狃の招きを断る
- (史記より)定公八年、公山不狃が季氏に叛き、後に費を拠点に陽虎の失脚後も孔子を招いたが、子路の反対もあり孔子は結局赴かなかった。
中都宰から大司寇へ
- (史記・家語より)定公は孔子を中都宰に任じ、長幼で食を異にし男女で道を別けるなどの養生送死の制度を定めて、一年でこれが四方の模範となった。次いで司空となり土地の性質に応じた利用の制を定め、季氏が昭公を本来の墓域の外に葬っていたのを溝を通して合わせ、季桓子の不臣の非を覆い隠した。その後大司寇となり、法を設けるだけで姦民が出なくなった。
司寇任命の辞
- (韓詩外伝より)孔子が魯の司寇に任命された際の、祖の名を引いて命じる古式の任命辞が伝わる。
訴訟の裁き方
- (説苑・家語・春秋繁露より)孔子は訴訟の裁定にあたり、必ず衆議を諮って各々の見解を確かめたうえで判断を下し、独断で決することをしなかった。
父子の訟え
- (荀子より)父子で訴え合う者があった際、孔子は三月間これを拘留するだけで裁かず、父の側が訴えを取り下げると釈放した。季孫氏はこれを孝の教化に背くと非難したが、孔子は「教えずして獄を聴くのは無辜を殺すに等しい」とし、先に道による教化を行い、それでも従わない者にのみ刑を用いるべきだと説いた。
夾谷の会
- (左伝・史記・公羊伝・穀梁伝より)定公十年、斉と魯が夾谷で会した際、孔子は相(儀礼の補佐)を務めた。斉が萊人の兵で魯君を脅そうとすると、孔子は階を上って「裔(夷狄)は華を乱すべからず、俘は盟を犯すべからず」と道理を説いてこれを退けた。さらに斉が宮中の俳優・侏儒を戯れさせようとすると、孔子は「匹夫にして諸侯を惑わす者は誅に当たる」として司法官に処断させた。斉侯は非を認め、かつて魯から奪っていた鄆・讙・亀陰の田を返還して謝罪した。
三都の破却
- (左伝・公羊伝・家語より)仲由(子路)が季氏の宰となり、三桓の私城(郈・費・成)を破却する策を進めた。叔孫氏は郈を、季氏は費を破却したが、公山不狃らが費人を率いて反撃し、孔子は申句須・楽頎に命じてこれを撃退し、費を破却した。成は孟孫氏の家老が固辞したため破却されなかった。
少正卯の誅殺
- (家語より)孔子は大司寇として相の任を摂行し、任官七日にして魯の乱政の大夫少正卯を誅殺し、その屍を三日間朝に晒した。名士を誅したことを問う子貢に、孔子は「心逆にして険、行い僻にして堅、言偽りて弁、醜を記して博、非に順いて沢する」の五悪を兼ね備えた者は、殷湯・文王・周公・太公・管仲・子産らも同様に誅した先例があると答えた。
善政の効果
- 孔子の善政により、羊を偽って太らせ売る商人や、素行の悪い妻を持つ者、奢侈な者が姿を消し、牛馬や羊豚の売買も適正となり、男女の別・道の拾遺なきことなど、風俗が大いに改まった。
斉の女楽と孔子の退去
- (史記・琴操より)定公十四年、孔子五十六歳、大司寇として相事を摂行し国政に与った。魯の治績を恐れた斉は美女八十人の舞楽団と文馬三十駟を魯に贈り、季桓子はこれを受けて三日間政務を怠り、郊祭の膰肉も大夫に配らなかった。孔子はこれを機に魯を去り、道すがら「彼婦の口、以て出走すべし」の歌を詠んだ。季桓子は後にこれを聞いて自らを恥じた。孔子はまた魯の亀山を望んで、季氏が魯を蔽う様を喩えた「亀山操」を作った。
編者按
- (編者按)家語では中都宰二年で司空になったとあり、これに従えば中都宰在任は孔子五十歳以前となるが、「周文武が豊鎬に起こって王となった」との語は孔氏の諸書に見えず、桓譚もこれを誣言としている。
- (編者按)諸侯の三卿は司徒・司馬・司空と称し、魯では三桓が世襲していた。司寇は三卿に数えられず、侯国の司寇は「大司寇」と称さない例が多い。ここで司空から司寇になったとするのは卿から大夫への降格に当たり、典拠が不明。『左伝』は孔子が司寇のときに墓を溝で合わせたとするが、ここでは司空の時としており、これも誤りの疑いがある。孔子が司空であったこと自体、事実でない可能性がある。
- (編者按)『史記』の年表では定公十一年に孔子は魯を去ったとするが、ここでは十四年とあり、記述が食い違う。
- (編者按)『史記』正義に、魯がこの功を旌するため築いた城を「謝城」と名付けたとある。
- (編者按)三都の破却は全て完遂されたわけではない。家語の記述は粗く、『史記』が十三年の事とするのも誤りである。
- (編者按)『新論』に、少正卯は魯で孔子と同時代におり、孔子門下は三度盈ち三度虚しくなるほど動揺したが、顔淵だけは離れず聖人の徳を知っていたと伝える。門人が仲尼を離れて少正卯に帰したのは仲尼の聖を知らなかったのではなく、少正卯の佞を見抜けなかったためである。
- (編者按)『符子』に、魯侯が孔子を司徒に任じようとし三桓に諮ろうとした際、左丘明が「裘を狐に、羞を羊に謀るような愚」を喩えに諫めた話が伝わるが、孔子は実際には司徒になったことはなく、これは後世の付託である。