繹史周を観る(觀周)

老子への問礼

  • (史記より)魯の南宮敬叔が魯君に願い出て、孔子とともに車馬・従者を伴い周に赴き、老子に礼を尋ねた。辞去に際し老子は、財ではなく言葉を餞とし、聡明で人を議論する者は身を危うくすると戒め、人の子・人の臣たる者は自らを恃むなと説いた。孔子は周から魯に帰り、以後弟子が次第に増えた。

萇弘の孔子評

  • (孔叢子より)孔子が萇弘に会って辞去した後、萇弘は劉文公に、孔子の風貌が黄帝・成湯に似た聖人の相であり、博聞強記で聖人の興る兆しがあると語った。劉文公が周室衰微の中で布衣の孔丘に何ができるかと問うと、萇弘は、堯舜文武の道は廃れても礼楽の統紀を正すことはできると答えた。孔子はこれを伝え聞き、自分はただ礼楽を好むだけだと謙遜した。

明堂の見学

  • (家語より)孔子は周の明堂を訪れ、四門の壁に堯舜・桀紂の善悪の像と興廃の戒め、周公が成王を抱いて諸侯に朝する図を見て、これが周の盛んであった所以だと従者に語った。明鏡は形を映すように、往古は今を知る鑑であるとし、後世が安存の跡を継がず危亡の兆しを怠ることを孔子は憂えた。

金人銘

  • (家語より)孔子は周の太祖后稷の廟で、口を三重に閉ざした金人の背に刻まれた銘文を見た。銘は多言・多事を戒め、慎み深く謙譲であることの徳を説き、江海が卑くあることで百川の長となる譬えなどを述べる。孔子はこれを読み、弟子に「戦戦兢兢、深淵に臨むが如く薄氷を踏むが如く」の詩句を引いて身を慎むよう説いた。