繹史本生(出自の記)(本生)

  • 履歴: 孔子、名は丘、字は仲尼。宋の微子啓の後裔で、魯の昌平郷陬邑の人。魯襄公二十一年(前552年CE、公羊・穀梁傳)または二十二年(前551年CE、史記)に生まれ、父叔梁紇を三歳で、母顔徴在を若くして失った。子に伯魚(鯉)がある。

孔子の家系(家語より)

  • 孔子の祖先は宋の微子啓(帝乙の長子、紂王の庶兄)に遡る。周の武王が殷を滅ぼした後、紂の子武庚が管叔・蔡叔・霍叔と共に乱を起こしたため、周公はこれを討ち、殷の後継として微子啓を宋に封じた。微子の弟仲思(微仲)が跡を継ぎ、以後、宋公稽・丁公申・湣公共・襄公熙と続き、弗父何・厲公方祀の代から代々宋の卿となった。
  • 弗父何の子孫は宋父周・世子勝・正考甫・孔父嘉と続き、五世を経て公族から分かれたため「孔」を氏とするようになった(一説に「孔父」は生時に賜った号で、子孫がこれを氏としたともいう)。孔父嘉から木金父・睾夷・防叔(華氏の禍を避け魯に奔る)・伯夏・叔梁紇と続く。

叔梁紇と顔氏の婚姻

  • 叔梁紇には九人の娘があったが男子は妾の子孟皮(足に病あり)のみであったため、顔氏に婚を求めた。顔父は三人の娘に「陬大夫は先聖王の裔であり長身武勇の人物だが年長で性厳しい」と問い、末娘の徴在のみが父の判断に従うと答え、嫁いだ。徴在は夫の高齢を懼れ、尼丘山に祈って孔子を身籠ったとされ、これにより名を丘、字を仲尼としたという(家語)。

出生をめぐる異伝

  • 史記は「叔梁紇と顔氏の女が野合して孔子を生んだ」とし、生まれつき頭頂が窪んでいたため丘と名づけたと記す。
  • 公羊傳・穀梁傳は誕生を襄公二十一年十一月庚子とする。新論・拾遺記・春秋演孔図・孝経鉤命訣などには、黒帝への感生説、二頭の蒼龍や五老星の降臨、麒麟の出現と玉書の予言(「水精の子、衰えた周を継いで素王となる」)など、神秘的な瑞祥伝説が多数記されている。編者は「附会にして誣うること多し」「尤も荒謬なり」と留保を付す。
  • 白虎通・論衡・荀子には孔子の風貌(反宇=額の形、面貌が「蒙倛」=厄除け面に似るなど)に関する異説も引かれる。
  • 幼少の孔子は常に俎豆(祭器)を並べて礼容を真似て遊んだという(史記)。

孟僖子の遺言と師事

  • 昭公七年、魯の孟僖子は礼を学び直し、死に臨んで大夫たちに「孔丘は聖人の後裔であり、その祖弗父何・正考父の謙譲の徳(三命にしていよいよ恭しく、鼎の銘に「一命にして僂し、再命にして傴し、三命にして俯し、墻に循いて走る」と刻んだ故事)を語り、「聖人の明徳ある者は、当代に栄えずとも後に必ず達人が出る」との臧孫紇の言葉を引いて、自分の子孟懿子・南宮敬叔に孔子を師事させるよう遺言した(左傳)。編者は、この年(孔子十七歳)と孟僖子の没年(昭公二十四年、孔子三十四歳)に時期のずれがあることを指摘し、史記の記述の粗さに注記する。

父母の死と合葬

  • 孔子は父の墓所を知らず、母の死に際して五父の衢に殯し、郰曼父の母に問うてようやく父の墓を知り、防に合葬した(礼記・史記)。合葬の後、孔子は「古は墓に封土をしなかったが、自分は東西南北を旅する身ゆえ目印が要る」として墓に土を盛った。後日、雨で崩れた墓を修復した門人に対し、孔子は涙して「古は墓を修めぬものだ」と述べた(礼記)。

母の喪と季氏の饗宴

  • 母の喪中、陽貨が季氏の饗宴について孔子を試すように話しかけた逸話(家語)。史記には「孔子は喪服のまま季氏の饗に赴こうとしたが陽虎に拒絶され退いた」とする異説を載せるが、編者はこれを「史文、聖を誣う」と評し、史記の記述を疑問視する。

諱と伯魚の逸話

  • 母の名(徴在)は二字を分けて諱む(一方のみを避ける)礼が守られたと礼記に記す。
  • 孔子は子の伯魚に「学ぶことこそ人が終日倦まずにいられるものであり、容貌や勇力、先祖の名声や家柄によらず、大名を後世に顕すのは学びの力による」と諭した(家語)。
  • 伯魚が母の喪を期を過ぎてなお哭き続けたのを聞いた孔子が「甚だしい」と咎め、伯魚はこれに従って喪を除いた(礼記)。
  • 伯魚(鯉)は五十歳で孔子に先立って没した(史記)。皇覧には、伯魚の墓が孔子の墓の東に並んで築かれたと記す。