繹史晋、肥・鼓を滅ぼす(伐鮮虞を付す)(晉滅肥鼓(陸渾附)(伐鮮虞附))
晉と狄との戦(大原の戦い)
- (左傳より)晉の中行穆子(荀吳)が無終と群狄を大原で破った(昭公元年)。魏舒は「敵は徒歩、我は戦車、地形が険しければ戦車は不利」と判断し、戦車を毀して歩兵の隊列(五乗を三伍に編成)に改めた。命令に従わなかった荀吳の寵臣を斬って軍規を示し、誘い出しの陣形で翟人を欺いて大破した。
肥の滅亡
- (左傳より)晉の荀吳は斉軍を装って鮮虞に道を借り、昔陽に侵入して肥を滅ぼし、肥子緜臯を連れ帰った(昭公十二年)。この戦いを機に晉は鮮虞をも攻めた。穀梁傳・春秋繁露は、晉が夷狄と共に中国(諸夏)を攻めたことを非難し、「夷狄」と貶めて記されたと解説する。
- 昭公十三年、鮮虞は晉の大軍が動いたことに油断して備えを怠り、晉の荀吳に大きな損害を受けた。
鼓の攻略と荀吳の信義
- 昭公十五年、荀吳は鮮虞を攻め鼓を包囲した。鼓人が城を売って降ろうとした際、荀吳(穆子)は「城を得ることより信義を守ることが大事」として裏切り者による内応を拒み、正攻法での攻略に固執した。三ヶ月の包囲の末、鼓人の食糧が尽きて自然に降伏するまで待ち、一人も殺さずに鼓子鳶鞮を連れ帰った。国語にも同様の逸話が詳しく記され、淮南子には「地を得ても本義を失えば意味がない」との評も引く。
- 昭公二十一・二十二年、鼓はいったん晉に服属した後、再び鮮虞に叛いたため、荀吳は東陽を経略し、糴(米買い)を装った兵で不意を突いて鼓を完全に滅ぼし、鼓子鳶鞮を再び連れ帰って渉佗に守らせた。
- 国語には、鼓の臣夙沙釐が「旧主に忠を尽くす」として晉への出仕を拒み、穆子がその節義に感嘆した逸話も収める。
陸渾の戎の滅亡
- (左傳より)周の平王東遷の際、辛有が伊川で被髪して祭る戎人を見て「百年を経ずしてこの地は戎のものとなろう、礼が先に亡ぶからだ」と予言し、実際に秦・晉が陸渾の戎を伊川に遷した(僖公二十二年)。
- 昭公十七年、萇弘は晉の使者の態度から「これは祭祀ではなく陸渾討伐の準備であろう、陸渾は楚と親しいゆえだ」と見抜いた。晉の荀吳は祭祀を装って陸渾を欺き、不意を突いてこれを滅ぼした。陸渾子は楚へ逃れ、民は甘鹿へ散った。
鮮虞との攻防のその後
- 定公三年、鮮虞は晉軍を平中で破り、晉の観虎を捕らえた(観虎が自らの勇に頼りすぎたためとされる)。定公五年、晉の士鞅がこの報復として鮮虞を包囲した。哀公六年、晉は范氏の乱の後始末として再び鮮虞を伐った。
編者按
- 春秋二百余年は戎狄との攻防と表裏一体であった。斉・晉の覇業はまず戎狄の制圧から始まったが、戎は各地に散在して弱く、狄は集住してかえって強大であった。僖公・文公の代には狄がしばしば禍をなしたが、晉襄公が箕で狄を破って以降、晉の狄患は減った。宣公の代に至り、狄の勢力は赤狄(潞・甲氏・留吁・廧咎如)と白狄(肥・鼓・鮮虞)に分かれ、赤狄は晉により滅ぼされ、白狄も晉に利用されて分裂・衰退の末に滅んだ。晉は交剛・大原の戦いで戦車を歩兵に改める奇策を用い、狄制圧に工夫を凝らした。かつて長駆して箕にまで至った狄の勢いは、以後の勝利を重ねるごとに後退し、その要害の地は次第に晉の版図に組み込まれていった。かつて赤狄を滅ぼして廧咎如に及んだように、今また白狄を破って鮮虞に及んだが、鼓・肥のような小国と結んで殄滅を図る晉の対狄政策は容赦のないものであった。しかし鼓の滅亡後、鮮虞への四度の遠征はいずれも功を奏さなかった。一小邑がどうして大国に抗しえたかといえば、晉の覇業がすでに衰え、中行氏・趙氏ら専権の臣が己の利のために国を私したため、遠方の民が離反し、義において晉が勝てなかったからである。斉桓公は狄を放任してなお覇を成したが、晉人は狄を治めながらも覇は衰えた、と言われる所以である。晉の末期には諸夏をことごとく失い、軍は疲弊し鮮虞を平らげられぬまま、平公・昭公・頃公・定公の代の覇業は日々衰え、二度と立ち直ることはなかった。