繹史鄭、許を滅ぼす(鄭滅許)

鄭・許の対立と楚への依存

  • (左傳より)許は楚を頼みとして鄭に服さなかったため、鄭の子良がこれを討った(成公三年)。以後、鄭は許の田を奪い、許は楚に訴えるなど攻防が繰り返された。晉も鄭を助けて楚と交戦するなど、許は鄭・楚の抗争に巻き込まれ続けた(成公四〜八年)。
  • 鄭悼公と許霊公が楚で訴訟を行ったが決着せず、鄭伯は晉に助けを求めて盟を結んだ(成公五・六年)。士貞伯は鄭伯の落ち着かぬ様子から「鄭伯はまもなく死ぬだろう」と予言し、的中した。

許の遷都

  • 鄭による攻撃が続く中、許霊公は鄭の圧迫を恐れて楚への遷都を願い出て、楚は許を葉に遷した(成公十五年)。その後も晉・鄭連合の攻撃が続き(襄公十六年)、許霊公は楚に伐鄭を請うたまま楚で客死した(襄公二十六年)。楚はこれを機に鄭を攻めたが、子産は「戦わずに退かせる方が得策」と判断し、鄭は敢えて迎撃しなかった。

許の度重なる遷都と衰退

  • その後も許は夷(城父)・析(白羽)などへと繰り返し遷され(昭公九・十八年)、楚の王子勝は「許は鄭の仇敵であり、楚地に置いても鄭に礼を尽くさぬ、国境の地を易えず国を小さくせぬのが道理」と進言し、遷都を重ねさせた。

許悼公の死と太子止の悲劇

  • 許悼公が瘧(マラリア)を患い、太子止が進めた薬により死去する事件が起きた(昭公十九年)。太子止はそのまま晉へ出奔し、書には「その君を弑す」と記された。君子はこれを「心力を尽くして君に仕えれば、薬そのものの適否は問わずともよい」と評した。
  • (公羊傳より)薬を進めたことで死なせた場合でも「弑」と書かれるのは、子としての看病の道を尽くさなかったことを譏るためであり、実際には太子止に赦しの意が込められていたとする解釈を載せる。
  • (穀梁傳より)太子止は自らを責めて位に即かず、弟の虺に位を譲り、哭泣し粥をすすりながら喉に粒も通らぬまま一年を経ずして死んだとし、真の弑逆ではないと擁護する立場を示す。併せて、子の過失は本人だけでなく養育・師傅・友人・有司・王者それぞれの責にも及ぶとする道徳論を展開する。

許の滅亡

  • (左傳より)定公六年、楚が敗れたことに乗じて鄭がついに許を滅ぼした。

編者按

  • 許霊公の在位中、鄭からの侵攻を幾度も受け(成公三・四・八・九・十四年、襄公十六年など)、恨みを積もらせて楚に助けを求めたまま客死した。かつて許穆公は覇者に従って陘で客死したが、それは義のための死であった。しかし霊公は怨みを晴らすための死であり、両者は同じ客死でも意味合いが異なる。許は斉桓公没後、信義なく楚に頼り続けたが、楚は共王・康王の世を通じて許を専ら庇護したわけでもなく、国境ではほぼ毎年鄭の侵攻を受けながら、霊公の死に際して楚はわずかに一度出兵したのみで、実質的な報いはなかった。悼公の代も楚の会盟には従い続けたが、楚が許のために報復した例はない。霊公は葉へ、悼公は夷、さらに白羽へと遷され、後には容城へも遷るなど、四度にわたる遷都はすべて楚の命によるものであり、荊を切り開いて仮の住まいを築くばかりで安んじる暇もなく、国の基盤は失われていった。楚の強国に乗じられて主を虜にされ、最終的に許を滅ぼしたのは鄭であるが、その遠因を作ったのは楚であるとも言えよう。鄭もまた晉と楚の間にあって自国の安泰のみを図り、許を圧迫し続けた諸夏の罪人というべき国である。召陵の会に許が晉と好を通じた際、鄭の献公はこれに乗じて許を虜にした、その心情は測りがたい。滅亡を目前にした許はさらに太子止の悲劇に見舞われ、賢い太子が薬を進めた自責の念から哭泣し一年を経ずして死んだことで、国の望みも絶えた。春秋は鄭による許の滅亡の暴を非難しつつ、許が楚に頼った愚を傷んでもいる。土地は楚に帰し、俘囚は鄭に帰した末に、許はついに滅んだ。哀公の代の経に再び許の名が見えるのは、あるいは弱小の許がなお再興を試みたということかもしれないが、太嶽の後裔たる許の血脈は、こうしてついに衰微したのである。