- 履歴: 楚の苦県厲郷曲仁里の人。姓は李、名は耳、字は伯陽、諡は耼。周の守蔵室の史(王室図書・記録の官)を務めた。孔子と同時代とされ、周の衰えを見て隠棲を志し、函谷関を越える際に関令尹喜の求めに応じて『道徳経』上下篇五千余言を著したという(史記)。没年・終焉の地は伝わらない。
孔子と老子の邂逅
- (史記より)孔子が周に礼を問うた際、老子は「その人は既に骨も朽ちている、言葉だけが残るのみ。時を得ねば蓬のように漂うがよい、驕気と多欲・態色・淫志を去れ」と説いた。孔子は弟子に「鳥は飛び魚は泳ぎ獣は走るゆえ捕らえる術も知れるが、龍が風雲に乗って天に上る様は計り知れぬ。今日会った老子はまさに龍のようだ」と語った。
老子をめぐる異伝
- 高士伝には陳の人で殷代に生まれ周の柱下史となったとする説、神仙伝には母が流星に感じて七十二年身籠り脇の下から生まれたとする説、三皇五帝の各時代に姿を変えて仕えたとする神仙化された伝承、函谷関で従者徐甲に関する不思議な逸話などを収める。史記自身も「老萊子」「太史儋」を老子と同一人物とする説を紹介しつつ「世に真偽を知る者なし」と留保する。拾遺記には、老子が五老(五方の精)や不思議な人物の助けを借りて『道徳経』十万言を撰し、後に精選して五千言に絞ったとする幻想的な伝説も載せる。
『道徳経』の要旨(上篇・下篇)
- 本書には『老子道徳経』の全文(上篇・下篇、あわせて八十一章相当)が引用されている。その大意は次の通りである。
- 道は名づけえぬ根源であり、無為自然によって万物を成す(上篇冒頭、道可道章など)。
- 有無・難易・長短など相対する概念は互いに依存して生じるものであり、聖人はこれに執着せず無為の行いをもって民を治める(処無為章)。
- 柔弱・謙譲・不争こそが剛強に勝る道であり、水はその譬えとして繰り返し用いられる(上善若水、天下柔弱莫過於水など)。
- 過度の欲望・技巧・法令の細かさはかえって民を乱すため、聖人は素朴を尚び、無知無欲の状態に民を導くべきである(絶聖棄智、小国寡民など)。
- 兵は不祥の器であり、已むを得ず用いる場合も慈しみと哀しみをもって処すべきである(佳兵不祥章)。
- 大国は小国に対して謙り下ることで人心を得るべきであり、これは江海が百谷の王となる理と同じである(大国下流章)。
- 下篇では、道が万物を生み育てながらも所有せず誇らないこと(道生一章)、剛強なものは死の徒、柔弱なものは生の徒であること(人之生也柔弱章)、天の道は余りを損じて足らざるを補うのに対し人の道は往々にしてその逆であること(天之道章)などが説かれ、最終章では「信言は美ならず、美言は信ならず」として飾らぬ言葉の徳を結びとする。
- 各章には後世の注釈者(河上公・韓非子・淮南子・道徳指帰=厳君平など)による解説や敷衍が割注として多数付されており、特に韓非子は「解老」「喩老」の議論を通じて法家的な解釈を加えている。
孔子と老子の問答(荘子より)
- 孔子が周に書を蔵めようとした際、老耼に「仁義」の意義を説いたが、老耼は「仁義は人の性ではなく、天地・日月・星辰・禽獣がもとより秩序を備えているように、無為自然に任せればよい」と退けた。
- 孔子が五十一歳で「道」を得られぬまま老耼を訪ね、「度数」「陰陽」に道を求めたが得られなかったと告げると、老耼は「道は人に授けたり言い伝えたりできるものではない」と説いた。
- 老耼が孔子に「六経は先王の遺した足跡(迹)にすぎず、足跡は履物そのものではない」と説き、孔子は三月間閉居して「私は今ようやく理解した」と語った逸話も収める。子貢が老耼を訪ねた際には、三皇五帝の治世観の違いを問われ、老耼は「三皇五帝の治は名を治というが実は乱の始まりである」と痛烈に批判した。
老耼の死
- 老耼が死んだ際、友人の秦失は三度声を上げて弔い、すぐに退出した。弟子が訝ると、秦失は「老いた者も若い者も我が子・母を失ったかのように哭くのは天の理に背く行いである。生死は自然の来去に過ぎず、これを悲しみ過ぎるのは天の刑罰(自ら招く苦しみ)を負うことだ」と説いた(編者は、この記述から老子が実際に死んだとする説を挙げ、後世の入関化胡伝説は付会であると注記する)。
関令尹喜
- 老子が西遊した際、関令尹喜が気を望んで真人の来訪を知り、老子を迎え『道徳経』を授かったとされる(列仙伝)。尹喜自身も『関尹子』九篇を著したと伝わり、道・物・精神・魂魄などをめぐる問答や箴言が引用されている(内容は道教色の濃い後世の付会が多いと編者は注記する)。
庚桑楚(亢倉子)
- 老耼の道を得た弟子庚桑楚(亢倉子)が畏塁山に隠棲し、その徳を慕う民に祭られそうになるのを固辞した逸話(荘子)。弟子南栄趎が「衛生の道」を求めて老子のもとへ赴き、「嬰児のように無心であれ」との教えを受ける長い問答も収める。
- 別伝として、魯侯の招きに応じた亢倉子が「耳目を使わずに視聴する」不思議な術を語った逸話(列子)も引く。編者は、荘子に見える畏塁・亢桑の記述は史記も「空語にして実事なし」と評しており、後世の『亢倉子』二巻は仮託の書であろうと注記しつつ一則のみ紹介する。
老萊子
- 楚の隠者老萊子は乱世を避けて蒙山に耕作し、楚王の招聘を固辞、妻と共に江南へ隠れた(高士伝)。七十歳にして親を楽しませるため嬰児の真似をしたという孝行の逸話(列女伝)も伝わる。仲尼を評して「己を矜り知を衒う者」と戒めた話(荘子)もあり、編者は老萊子と子思の問答(孔叢子)などから、老萊子が孔子より後代の人物である可能性を示唆しつつ、史記が老萊子を老子伝の中に併記していることへの疑問を呈する。
楚狂接輿
- 楚の隠者接輿は、楚王からの招聘を固辞し、姓名を変えて姿を隠した(韓詩外伝)。孔子の門前で「鳳よ鳳よ、徳の衰えたるをいかにせん」と歌い、有用の用ばかりを知り無用の用を知らぬ世を批判した逸話(荘子)も引く。列仙伝は接輿を後の仙人陸通と同一視するが、編者はその根拠に疑問を呈する。
『文子』からの引用
- 老子の教えを敷衍したとされる『文子』からも多くの章句が引かれ、無為の道による治国、精誠が天地に通じること、水の徳(柔弱にして至剛に勝る)、人体と天地の対応(頭は天、足は地に法るなど)、聖人が耳目心力を天下と共にすることの効用などが論じられる。編者は「文子の書は淮南子(鴻烈解)にほぼ取り込まれており、こちらは精微、彼は浩渺」と評する。
編者按
- 老子の説く所は虚無を貴び、無為をもって変化に応じ、その書は微妙で捉えがたいとされる。荘子は老子の道を「本を精とし物を粗とする」ものと評し、有り余ることを不足とみなし、独り恬淡として神明と共に居ることを旨とすると評した。老子の道は無為を宗とし、柔を守り虚を蔵し、清静澹泊にして禍を遠ざけ世と競わぬことを本質とする。史記が老子を「隠君子」と呼ぶのはこのためである。その書五千言は道徳を貴んで仁義を薄しとし、後世の道家はこれを宗とした。世に伝わる老子像は神怪の説に満ち、数百歳の長寿を保ったとも、天地に先んじて生まれ三皇五帝の各代に姿を変えたとも言われるが、孔子が周を訪れて礼を問うた相手として博く古に通じ周の守蔵史であったことは確かであり、それ以前の時代に生まれたとする説や不老長寿の説は根拠に乏しい。道家の書として「老子」に仮託されたものは多いが、ここでは真偽の判別を尽くさず、五千言そのものを録するに留めた。