穀・洛の水争いと太子晉の諫言
- (国語より)霊王二十二年、穀水と洛水が争い王宮を毀損しようとしたため、王が塞ごうとすると太子晉(王子晉)は「山を崩さず藪を崇めず川を防がず沢を塞がないのが古の聖王の道」と説き、共工・鯀の失敗と禹の治水の成功を対比し、川を塞いで宮室を飾ることは「乱を飾り立て神との争いに手を貸すこと」だと諫めたが、王は聞き入れず塞いだ。以後、景王には寵臣が増え、王室は大いに乱れたと結ぶ。
太子晉の逸話
- (周書・逸話群より)晉の太子晉が十五歳にして師曠を論破するほどの英才であった逸話を詳しく載せる。聖・仁・義の定義、名分の由来(胄子・士・伯・公・侯・君・天子等の階梯)、舜の徳への賛美などを問答形式で語り、師曠は感嘆した。太子晉は自らの早世を予言し、三年後に没した(後世、仙人王子喬の伝説と結び付けられる)。
単公の徳と単・劉氏の由来
- (国語より)晉の羊舌肸(叔向)が周を聘問した際、単靖公の倹約・敬慎・謙譲な応接ぶりに感銘を受け、「一姓は再興せずというが、周はまさに単氏によって興るだろう」と評した逸話。
王室の器物と籍談の失態
- (左傳より)穆后の葬儀の後、晉の籍談が周王に鎮撫の器を献じなかった理由を問われ、答えられずに恥をかいた(昭公十五年)。周王は「先祖の功と典籍を忘れるとは」と非難し、叔向は「王が喪の礼を早々に切り上げて宴を求めたこと自体が非礼」と評した。
景王の奢侈(大銭・大鐘の鋳造)
- (国語より)景王が大銭を鋳ようとした際、単穆公は「民の資財を奪い離反を招く」と諫めたが聞かれず、強行された(景王二十一年)。
- 無射(大鐘)の鋳造でも、泠州鳩・単穆公らが「財を尽くし民心を離れさせるのみで益がない」と繰り返し諫めたが、王は「老いぼれの言うことなど」と退け、強行した。伶州鳩は完成後も「民の怨みが解けぬ限り真の調和(龢)とは言えない」と警告し、実際その二年後に王は崩じた。
- 律の理論(十二律の由来と武王伐殷の故事との対応)についての伶州鳩の長大な問答も収める。
王子朝の乱の勃発
- (左傳より)景王の寵臣賓起と王子朝が結び、王子朝を太子に立てようとしたが、単穆公・劉獻公らはこれに反発した(昭公二十二年)。景王が急死すると、単子・劉子は王子猛(悼王)を擁立し、王子朝は旧官・百工の残党と結んで武力蜂起。両派は洛陽周辺で激しい攻防を繰り返し、悼王も間もなく病没(不成喪)した。
- 敬王(王子匄)が立てられたが、王子朝は王城を占拠し続け、東西二王が並立する事態となった(昭公二十三〜二十六年)。
晉の介入と王子朝の敗走
- 晉の籍談・荀躒らが諸侯連合を率いて敬王を援け、王子朝は次第に追い詰められた(昭公二十六年)。最終的に晉軍が鞏を陥落させ、王子朝は召氏一族や毛伯得・尹氏固らと共に周の典籍を携えて楚へ亡命した。
- 王子朝は諸侯に檄文を送り、自らの正統性(宗室の慣例に照らした兄弟継承の先例)を主張したが、閔馬父は「文辞の巧みさで礼を装っているに過ぎない」と評した。
成周の築城と諸侯の分担
- 王子朝没落後も残党(儋翩ら)が鄭と結んで乱を続け、周は成周(王城)の再建を諸侯に依頼した(昭公三十二年、定公元年)。晉の魏舒らが諸侯の大夫を集めて城普請の分担を定め、宋の仲幾が分担を拒んだため捕らえられる事件も起きた。范献子・子太叔(游吉)の間で交わされた「礼とは何か」をめぐる問答(天の経・地の義・民の行としての礼の本質論)も詳しく収める。
萇弘の悲劇
- 周の萇弘は劉文公と結んで成周の再建に尽力したが、晉の范氏・中行氏の乱に連座した疑いをかけられ、周人によって殺された(哀公三年)。国語・韓非子・史記など諸書には、叔向の讒言説、方術で諸侯を欺こうとした説など異説を併記する。拾遺記には、萇弘が神異を操ったとする伝説的逸話も引く(編者は史実性に留保を付す)。
儋翩の乱の残党鎮圧
- 王子朝派の残党である儋翩の乱は敬王六〜八年にかけて続き、晉の援軍によりようやく鎮圧され、王室は安定を取り戻した。
編者按
- 昭公の春秋経に「王室乱る」「劉子・単子、王猛を奉じて皇に居る」と記され、翌年には「天王、翟泉に居る」「尹氏、王子朝を立つ」と続くのは、寵愛による偏りが禍を招いた典型である。景王は初め弟の佞夫を疑い殺したが、その後継への配慮を欠き、太子晉・寿の早世という不運も重なり、晩年には大銭・無射の鋳造に見るように驕侈の心を抱いた。単・劉ら忠臣は悼王・敬王を支え続けたが、召氏・尹氏・毛氏・原氏ら王子朝派は離合を繰り返し、南宮極の地震のような凶兆も現れた。晉が黄父の会で十国の兵を率いて援けたことでようやく王室は定まったが、敬王は即位一年で出奔し、四年後に入城、さらに五年を経て諸侯が成周を築くという、実に龍戦五年の混乱であった。この禍根はひとえに景王の寵愛の偏りにある。単・劉の子孫はその後も忠勤を尽くしたが、甘氏は父が忠にして子が叛き、召盈は王子朝に仕えながら後に王に帰順し、尹固も反復常なく、これらは毛氏・原氏と並ぶ罪人と言うべきである。かつて子帯の乱では斉桓公・晉文公の覇業によって王室は安定したが、敬王の代に長年混乱が続いたのは、時にふさわしい覇者を欠いていたためである。それでも晉の頃公・定公が二代にわたり王室を助けたことは、覇業の余烈と言えよう。京師で叛臣が誅され、王子朝も楚で誅殺されて悪は概ね除かれたが、姑蕕への遷幸などその後もなお周室の安寧は続かなかった。定公・簡公以後、王室の内紛は記録しきれないほど頻発し、春秋の筆はその一端のみを大書するに留めている。これは記しきれなかったというより、あえて詳細に記さなかったのであろう。