繹史宋公族の廃興(宋公族廢興)

昭公の即位と公族の廃立をめぐる論争

  • (左傳より)宋成公の死後、公子御が太子と大司馬公孫固を殺して自立するが、宋人はこれを殺し、成公の少子杵臼(昭公)を立てた(文公七年)。
  • 昭公が公族を除こうとした際、司馬樂豫は「公族は公室の枝葉、これを除けば根本が庇護を失う」と諫めたが、穆・襄の族はかえって国人を率いて公孫固・公孫鄭を殺し、六卿が和して公室を保った。

襄夫人と昭公の弑逆

  • 昭公が襄夫人(襄王の姉)に礼を尽くさなかったため、夫人は戴氏の一族と結んで昭公派の要人を殺害した(文公八年)。以後、公子鮑が国人に施しを厚くして人望を集め、襄夫人もこれと通じようとし、昭公を廃する動きが強まった。
  • 昭公が孟諸へ狩りに出た際、夫人王姫の命で殺害され、蕩意諸がこれに殉じた(文公十六年)。書に「宋人その君杵臼を弑す」とあるのは、昭公の無道を示すためとされる。文公(鮑)が即位した。
  • (国語より)晉の趙宣子は「弑逆は天地の道に反する大罪」として宋討伐を進言し、諸侯を集めて宋に至ったが、結局文公の即位を認めて撤兵した。

文公の粛清と公族の分裂

  • 文公は即位後、武氏一族の陰謀を機に母弟の湏や昭公の遺児らを殺し、武・穆の族を追放した(文公十八年、宣公三年)。

桓族の乱(華元・魚石らの出奔)

  • 共公の代、司馬蕩澤(桓族)が公室を弱め公子肥を殺したため、右師華元は責任を取って晉へ出奔した(成公十五年)。魚石らは華元の復帰を望み、これを止めようとしたが華元は帰国し、蕩氏を討伐。魚石・向為人・鱗朱・向帶・魚府らは楚へ出奔した。
  • 楚は出奔した五大夫を彭城に封じて宋に対抗させたが、諸侯連合軍(晉主導)が彭城を包囲してこれを降し、五大夫は晉に抑留された(襄公元年)。

華臣の乱

  • 華閲の死後、その子華臣が異母兄の家臣を殺害するなどの暴挙に及び、国人の怒りを買って陳へ出奔した(襄公十七年)。

太子座の廃立(寺人伊戾の讒言)

  • 平公の代、寺人伊戾が太子座を陥れる偽の証拠(埋めた盟書)を捏造し、太子は無実のまま自害した。左師(向戌)が真偽を確かめる間もなく事は進み、後に無実が判明して伊戾は処刑された(襄公二十六年)。

寺人栁と華氏・向氏の乱

  • 平公の寵臣寺人栁が太子佐に憎まれたが、華合比を讒言で失脚させ、代わって権勢を得た(昭公六年)。
  • 元公の代、華亥・向寧らが公子たちを謀殺・拘束し、太子欒らを人質に取る大乱に発展した(昭公二十年)。華氏は南里に立てこもり、呉の援軍(華登が要請)を得て抗戦したが、諸侯の援軍(晉・斉・衛の連合)に敗れ、最終的に楚の仲介で華亥・向寧らは楚へ亡命した(昭公二十一・二十二年)。

桓魋(向魋)の専横と乱

  • 景公の寵臣桓魋(向魋)が権勢を振るい、公子地との対立(白馬をめぐる争い)から公子地・辰・仲佗・石彄らが陳へ出奔し、蕭に拠って叛いた(定公十・十一年)。
  • 桓魋はさらに景公の暗殺を図る動きを見せたが露見し、曹へ出奔して叛いたが失敗、衛・斉・呉を転々とし、最後は魯の郭門外で没した(哀公十四〜十七年)。呂氏春秋には、桓魋が宝珠を池に投げ捨てたため無理な捜索で魚まで死んだという寓話も引く。

大尹の乱

  • 景公に嗣子がなく、大尹(宦官)が権勢を振るって君命を偽り国政を専断した。景公の死を隠して啓(庶孫)を立てようとしたが、六卿・国人がこれに抗い、大尹は啓を奉じて楚へ出奔した(哀公二十六年)。史記には、景公が公子糾の子(特)を殺して昭公が自立したとする異説も引く。

編者按

  • 宋は諸夏の中でも大国であり爵位も上公にあったが、春秋二百余年の間についに振るわなかったのは、内乱が多く大臣が離反を重ねたためである。成公の死後、公子御の簒奪と誅殺、国人による昭公擁立と、正名を貫いたはずが結局昭公自身も弑逆される結末を迎えたのは、宋が三世にわたり内婚を重ねて妃党の勢力が強大化していたことに由来する。文公(鮑)はその兄を弑した疑いを免れないまま即位し、母弟や甥まで殺す残忍さを見せた。以後、平公の代の華元の専政、元公の代の華氏・向氏の大乱では、殺・質・出奔・入国を繰り返し、楚のような夷狄の力さえ借りる事態となり、春秋の乱賊の中でもとりわけ甚だしいものであった。この禍根はひとえに平公が太子座を讒言で殺し、寺人栁を寵愛したことにある。元公もまた寺人の讒を悟らず同じ過ちを繰り返し、景公の代に至っても桓魋への寵愛が衆叛親離を招き、さらに大尹という新たな寵臣がその後を襲った。宋がたびたび彭城・南里のような国土の分裂を経験し、諸侯の助けも十分に得られなかったのは、晉の覇権が衰えたことと相まって、宋の暗君が続いたことに主たる原因がある。易に「王の明を重んず」とあるのは、まさにこのことを言うのであろう。