繹史三桓、魯を弱める(三桓弱魯(仲遂殺適立庻附))
東門襄仲の専権と適子殺害
- (左傳より)文公の妃敬嬴が寵愛を受け、その子(後の宣公)を東門襄仲(公子遂)が擁立しようとし、反対する叔仲惠伯を謀殺、太子悪とその弟視を殺して宣公を立てた(文公十八年)。夫人(哀姜)は斉に帰る際、市を通りながら「天よ、仲は道に外れ、適子を殺して庶子を立てた」と泣き哭き、市人も共に泣いたという。
- (史記より)これ以後、魯の公室は衰え三桓(季孫・叔孫・孟孫)が強くなったと総括する。
- (公羊・穀梁傳より)宣公の即位、荘公の廟での繹祭に関する記述で、東門襄仲(仲遂)の弑逆を非難する筆法(「子卒」と諱む等)を詳しく解説する。
季文子の初期の施政
- 莒の太子僕が父を弑して宝玉と共に魯に亡命した際、季文子(行父)は史克の言を借り、「孝敬忠信を吉徳、盗賊蔵姦を凶徳」とする周公の教えを引いて僕を国外に追放した(文公十八年)。
- 初税畝(田畝に応じた新税制)の導入を「非礼」と評する記事、宣公が泗の淵で漁をした際、里革が網を破り捨てて自然の理に反すると諫めた話(国語)を収める。
公孫帰父(東門氏)の失脚
- 公孫帰父(襄仲の子)が晉の力を借りて三桓を除こうと図るが、成公即位直後に宣公が没し、季文子は朝廷で「適子を殺し庶子を立てさせた罪は仲にある」と公然と非難、東門氏を追放した(成公元年頃相当)。帰父は晉から帰る途中でこれを知り、そのまま斉へ出奔した。
三桓の勢力拡大の諸段階
- 季文子・孟献子は倹約を旨とし、劉康公は「季孟は長く魯にあり続けよう、叔孫(僑如)・東門氏は驕奢のため滅びよう」と予言した(国語)。
- 叔孫僑如(宣伯)は穆姜と密通し、季孫・孟孫を除いてその財産を得ようと図ったが、晉に讒言して失敗し、斉へ追放された(成公十六年)。范文子は「季孫は忠、僑如は讒慝」と評し、季文子の釈放に助力した。
- 穆姜(成公の母)は自らの悪行の兆しを易占で悟り、「随に元亨利貞の四徳あれど、我はいずれも欠く」と述べ、東宮に幽閉されたまま没した。
季文子・孟献子の清廉
- 季文子は三代の君に仕えながら妾に絹を着せず馬に穀物を与えぬ質素を貫き、死後もその倹約ぶりが確認された(襄公五年)。子貢との問答(説苑)では、「窮する時は賢者に仕え、通ずる時は窮者を挙げ、富める時は貧者に分かち、貴ければ賤者に礼を尽くす」との処世が称えられる。
- 孟献子(仲孫蔑)も同様に質素を貫き、韓非子はこれを「爵禄の秩序を乱す行き過ぎた倹約」と批判的に評する異説も引く。禮記には「喪における配慮に優れた人物」として描かれる。
季武子の専政拡大
- 季武子(宿)は費の城普請、三軍の創設(公室の兵権を三分し各家が領有)などにより魯の軍政を私物化した(襄公十一年)。叔孫穆子は「政はやがて子に及ぶ」と警告しつつも従った。
- 卞の邑を奪取した事件、公冶を巡る国君との駆け引き、季武子が悼子(庶子)を嫡子として立てようと図り、公鉏を懐柔した経緯なども詳述される(襄公二十三年)。
叔孫豎牛の乱
- 叔孫穆子(豹)の庶子豎牛が、異母兄の孟丙・仲壬を陥れて殺し、穆子を餓死させ、自ら家を乗っ取ろうとしたが、昭子(叔孫氏の後継)が即位後にこれを討ち、豎牛は斉へ逃れる途中で殺された(昭公四・五年)。仲尼は「昭子が私怨で罰さず私労で賞さなかった」ことを賢としたが、占いには早くから凶兆が示されていたとする。
- この際、三軍の制を廃して四分公室に改め、季氏の権力がさらに強まったことも記す。
昭公の失位と亡命(三桓による国外追放)
- 昭公二十五年、季平子(意如)と郈氏・臧氏との私怨(鶏合わせの遊びの遺恨等)から対立が深まり、昭公は季氏を討とうとしたが、子家羈(懿伯の子)は「季氏はすでに久しく民心を得ており、勝算は薄い」と諫めた。昭公は決行するも敗れ、斉へ出奔した(昭公二十五年)。
- 公羊傳には、昭公が子家駒に「季氏の無道を討ちたい」と相談し、子家駒が「大夫の僭越はすでに久しい、季氏は民を得て久しい」と諫めた経緯、斉の景公が亡命した昭公を丁重に迎え慰めた際の応酬(食を勧められても固辞し続けた昭公の姿)が詳しく描かれる。
- 昭公は斉・鄆・乾侯を転々とし、季平子はたびたび改悛の意を示す姿勢を見せつつも実質的には昭公を国に戻さず、ついに昭公は在外のまま七年目に客死した(昭公三十二年)。趙簡子と史墨の問答では「季氏が魯君に代わって久しく民を得ているのは天の道理であり、社稷に常主なく君臣に常位なし」と説かれる。
定公の即位と季氏の政
- 昭公の喪が乾侯から戻り、定公が即位(定公元年)。以後も季孫氏(季桓子・季康子)の専政が続く。
- 田賦の制の導入をめぐり、孔子は冉有を通じて季康子に「周公の典に則り、礼に度り薄きに従うべき」と諫めたが、聞き入れられなかった(哀公十一・十二年)。
- 陽虎(季氏の家臣)による専横、季桓子の後継争い(南孺子の子をめぐる正常の遺言問題)なども収める(哀公三年)。
悼公・哀公の代のその後
- 哀公は三桓の専横を除こうと諸侯や越の力を借りようと図ったが果たせず、晩年には公孫有山氏のもとに身を寄せ、越へ出奔した(哀公二十七年)。史記は「悼公の代には三桓が魯に勝り、公室は小侯のように卑しくなった」と総括する。
編者按
- 魯文公が没した後、東門襄仲が悪・視を殺して宣公を立てたことに公室衰退の淵源がある。文公自身が怠惰な君主であり、政令が下に移りゆくのを許した。宣公は斉に頼って即位を安定させたが、その代償として東門氏の専権を招いた。季文子が仲遂の罪を口実に東門氏を除いたことで、実質的な権力は季氏に集中し、以後の魯の政治構造を決定づけた。成公の代には晉に忠実に仕えたが、叔孫僑如の乱などの内紛が続き、季孫・孟孫の忠倹によって辛うじて公室は保たれた。しかし季武子(宿)が費の城普請や三軍創設によって権力を我が物とし、公室はいよいよ弱まった。叔孫穆子は三軍の設置には抗えなかったが、その後の廃止には抵抗しようとした。天が魯を助けなかったのか、豎牛の乱や南遺らの介入によって禍が重なり、昭子も定まった地位を得られなかった。昭公が季氏討伐を企てた背景には、季氏の専横が積年にわたっていたことがあり、事は倉卒に起こされ深謀遠慮を欠いていたため失敗し、七年の亡命の末に客死するという悲劇的な結末を迎えた。この間、季氏はしばしば恭順の姿勢を示す一方で実際には昭公を帰さず、晉・斉もまた賄賂を受けて実質的な介入を怠った。定公・哀公の代に至っても三桓の専権は変わらず、公室はますます傀儡と化していった。斉の田氏、晉の三卿(韓・魏・趙)による簒奪と並び、魯の三桓による専権もまた春秋末期の下剋上の縮図であり、その子孫もまた後に振るわなかったことを思えば、周公の遺業もついに衰えたと言うほかない。