宮室・喪礼をめぐる諫言
- (晏子より)柏寝の室が「夕(西向き)」に建てられた理由を、晏子は「周室を尊び西方に建国した故事」に基づくと説き、景公に感心された。
- 逢於何が母を路寝台下に葬りたいと願い出た件で、晏子は「宮室を奪い民の墓を損なうのは仁君の行いにあらず」と諫め、景公は合葬を許した。
- 盆成适(孔子の門人)が貧しさのため母の合祔ができず路寝下で嘆いていた話を、晏子が取り次ぎ、景公は葬送のための凶門を開かせ、厚く弔わせた。
妖異への対応
- 柏常騫が梟の怪鳴や彗星を禳(はら)おうとした際、晏子は「政と徳を正すことこそ真の禳いであり、祭祀だけでは無益」と諭した。
民を思う土木事業の抑制
- 饑饉の際、路寝台の造営費を晏子が意図的に引き延ばし、民の負担を軽くしつつ台も完成させた(三年かけて緩やかに実施)。
- 長庲・鄒の長塗など複数の土木事業について、晏子は舞や歌で悲しみを表現し、涙ながらに訴えて景公を反省させ、工事を中止・縮小させた(複数の逸話を収録)。
- 大鐘の鋳造も「民を重ねて搾ることになる」として諫止した。仲尼・柏常騫と並んで鐘の破損を予言した逸話も引く。
祭祀・鬼神観
- 景公が病や熒惑(火星)の凶兆を気に病んだ際、晏子は「天罰は民への失政の結果であり、祭祀での取り繕いは無意味、寃罪の獄を解き施しを行うことこそ禳いである」と説き、実行させると熒惑は退いた。
- 梁丘拠・裔款が「鬼神への奉仕が篤いのに病が癒えぬのは祝史の怠慢」と讒言した際、晏子は「有徳の君主の祝史は民の怨みがなく神に恥じることがないが、無道の君の祝史は民の怨嗟の多さに敵わない」と説き、景公は政を改めた(昭公二十年)。
畋猟・遊興への諫言
- 沛での猟で虞人が正しい招き方でなかったため出頭を拒んだ故事(仲尼「守道は守官に勝る」と評)。
- 景公が18日間も猟に耽った際、晏子が「五人の臣(士師・祝・行人・田官・財務官)がいれば君は心配ないというが、四肢に心が無くては身が保てない」と諫めた(史記・韓詩外伝)。
- 虎や蛇を見た不吉を気にする景公に、晏子は「それぞれの棲家で会うのは当然、不祥ではない」と説いた。
- 猟の際、地に座る作法について「喪や獄訟の時のみ地に座る」と晏子が説明した逸話も収める。
「和」と「同」の論
- 遄台での宴で、景公が寵臣梁丘拠を「我と和す」と評したのに対し、晏子は「和と同は異なる」とし、羹の調味に喩えて君臣が是非を率直に述べ合うことこそ和であると論じた(左傳の名高い一節)。「不死の楽」を問われた際は「不死ならば古の主が今も君臨し、あなたの位はない」と応じた。
死生と諫言(牛山の涙)
- 景公が牛山に登り「この美しい国を捨てて死ぬのが惜しい」と涙した際、梁丘拠らは共に泣いたが、晏子は独り笑い、「不死が続けば太公・桓公が今も国を治め、あなたの位はなかった」と説いて景公を戒めた(列子・韓詩外伝に類話あり)。
賢臣の推挽と諫言の集成
- 彗星の出現を憂う景公に「天道は諂わず、徳の穢れを改めることこそ真の禳いだ」と説いた(左傳・史記)。
- 老人の薪負いの姿や饑えた子への同情、道端の死者への配慮など、民生を思う諫言を重ねて記す。
- 縣愛の槐の木を犯した者を厳罰しようとした景公に対し、罪人の娘(婧)の訴えを通じて晏子が諫め、法を改めさせた(列女伝に類話あり)。
- 弓工の妻の弁明により、弓の性能を正しく評価させた話(韓詩外伝、別伝は晉平公の故事とする)。
越石父・北郭騒との交わり
- 捕らわれていた賢者越石父を身請けし、礼を尽くして客としたが、当初非礼があったため一時絶交を求められ、晏子は改めて厚遇した(呂氏春秋・晏子に詳細)。
- 貧しい北郭騒に施しをした後、晏子が讒言で出奔した際、北郭騒は自らの命を賭して晏子の潔白を証し、友人と共に自刎して晏子の帰国を実現させた。
高繚・梁丘拠との対比
- 三年仕えても過ちを弼けなかった高繚を、晏子は「家風に適わぬ」として辞めさせた。
- 梁丘拠が「自分は晏子に及ばない」と嘆いた際、晏子は「私は特別ではなく、ただ怠らず努めているだけだ」と答えた。
孔子との関係
- 仲尼は「靈公の汚れには整斉、荘公の勇壮には宣武、景公の奢侈には恭倹をもって仕えた」と晏子の処世を評した。晏子自身も「一族数百家が自分の禄で祀りを保っている、だからこの仕えをするのだ」と答えた(孔叢子に異説の問答も引く)。
晏子の死
- 寵妾嬰子の死を悼んで政務を放置する景公に対し、晏子は偽医者を使嗾して既に殮(納棺)を済ませ、「死者は生き返らない」ことを悟らせた。
- 晏子自身が死に臨み、柱に遺言を刻み妻に託した(「布帛も牛馬も士も国も、窮すれば用をなさぬ」の教え)。
- 晏子の死後、景公は素服で駆けつけ号泣し、「大夫の忠言を失った」と嘆いた。没後十七年、弦章が「晏子の遺風」を守り媚びる臣下と一線を画した逸話をもって締めくくる。
編者按
- 晏平仲は靈公・荘公・景公という三代の暗君に仕えたが、荘公弑逆の際には遺骸に伏して礼を尽くし、大宮の盟いでは節を曲げず、仁者の勇を示した。景公は決して大きな為政のできる君主ではなく、寵臣梁丘拠・裔款らを重用し、宮室台榭や声色狗馬を好んだが、晏子は諷諫によってこれを補い続け、危行言遜(行いは厳しく言葉は控えめ)を貫いて乱世にあって身を全うし、名を諸侯に顕し斉国はその恩恵を受けた。とはいえ景公自身に遠大な計はなく、繁刑・嗜酒・田猟遊観を好んで晏子の諫言をたびたび破ったため、桓公の覇業を継ぐことはついにできなかった。晉の覇権が衰えた時期にあってなお子朝の乱・季氏の専横・北燕や莒などの周辺国の混乱を鎮められず、まして政が陳氏に移りゆく中で覇を求めることは難しかった。権勢は君主にとって淵の魚のようなものであり、その徳が私門(陳氏)に移りゆき、彗星が現れ、詛(のろい)が下々で交わされ、牛山に登って涙するさまは、晉の叔向にすら私かに憂えさせるものであった。