- 履歴: 宋の司城(大夫)楽喜、字は子罕。平公期に活動し、清廉と仁政で知られた宋の名臣。
華弱と樂轡の争い(左傳より)
- 襄公六年、宋の華弱と楽轡は幼少より親しく諍いも多かった。子蕩が怒って華弱を弓で朝廷にて縛ったため、平公は「司武でありながら朝廷で縛られるとは示しがつかぬ」と華弱を追放した。夏、華弱は宋に出奔してきた。司城子罕は「同じ罪で罰が異なるのは公平でない、朝廷で専断して人を辱めることこそ大罪だ」として子蕩も追放した。子蕩は子罕の門に矢を射て抗議したが、子罕は元通り彼を厚遇した。
火災への備え(左傳より)
- 襄公九年春、宋で火災が起きた。楽喜(子罕)は司城として政を執り、伯氏に街区を管理させ、火の及ばぬ小屋を壊し大屋に泥を塗り、もっこや桶を備え、水量を測って土を積み、城壁を巡視して防火帯を作るなど、周到な火災対策を指揮した。祭祀も併せて行った。
- 晋侯が士弱に「宋は火災から天道を知るというが本当か」と問うと、士弱は、古の火正が心宿・咮宿によって出火・鎮火の時を計った故事、商の祖・閼伯が大火を祀った由来を語り、火災の頻発と国の禍とは関係があると答えた。
玉を受け取らぬ清廉(左傳・韓非子・新序より)
- 襄公十五年、宋人が得た玉を子罕に献じたが、子罕は受け取らなかった。献上者が「玉人はこれを宝と鑑定した」と言うと、子罕は「私は貪らぬことを宝とする。あなたは玉を宝とする。もし私に与えれば互いの宝を失うことになる。それぞれ自分の宝を持つに越したことはない」と答えた。献上者はそれでも「小人が璧を持てば郷里を歩けない、死を免れるために納めたい」と願い、子罕はその里に玉を預け、職人に磨かせて富ませてから戻した。
- (韓非子より)同様の逸話が伝わり、子罕の「受け取らぬ」ことを宝とする姿勢が「欲せぬことを尊ぶ」道理として語られる。
- (新序より)人はそれぞれ宝とするものが異なり、子罕が宝としたものの尊さを称える逸話がある。
農繁期の築台をめぐる諫言(左傳より)
- 十七年、宋の大宰皇国父が平公のために台を築こうとし、農繁期にかかったため、子罕は農作業が終わるまで待つよう求めたが、公は聞き入れなかった。工事に従う者たちの歌に不満が滲んでいたため、子罕は自ら鞭を執って怠ける者を戒め、「我々にも家があり暑さ寒さを凌げるのに、君のために台一つ速く造れぬのか」と諭し、歌を止めさせた。人にその理由を問われると、子罕は「宋国は小さいのに呪いと祝いが絶えぬのは禍の元だ」と答えた。
鄭の子皮との比較と飢饉への施し(左傳より)
- 二十九年、鄭で子展が死に子皮が政を継いだ頃、鄭が飢饉に見舞われると子皮は国人に穀物を分け与え民心を得た。宋でも飢饉が起きると、子罕は平公に穀倉を開いて貸し出すよう求め、大夫たちにも貸させ、司城氏自身の貸与は記録せず無利子とした。晋の叔向は「鄭の罕氏、宋の楽氏は、いずれ国を得るだろう」と評した。
陽門の門番の死を悼む(禮記より)
- 陽門の下級役人が死んだ際、子罕はこれを弔って哀しんだ。晋の間者がこれを見て晋侯に「陽門の下役の死をあれほど哀しみ、民も喜んでいる宋は攻められまい」と報告し、孔子はこの逸話を「善く国情を見抜いたものだ」と評した。
隣人への配慮(呂氏春秋より)
- 楚の使者士尹池が子罕を訪ねた際、南隣の壁が食い込み西隣の水が庭を流れているのを見て理由を尋ねると、子罕は「南隣は靴職人で三代の生業を奪えば困窮させる、西隣の水路は彼らの利益になるから禁じない」と答えた。士尹池は帰国後、楚王に「宋の君主は賢く宰相は仁である、攻めても功なく天下に笑われる」と諫め、楚は宋を攻めず鄭を攻めることとした。孔子はこの故事を「廟堂で修めた徳が千里の外で敵を退ける」典型として称えた。
子韋への恩義(說苑より)
- 子罕が寵愛した子韋は、子罕が失脚した際には従わなかったが、子罕が復位すると再び重用した。周囲がこれを非難すると、子罕は「私が子韋を用いられなかったから失脚したのだ。今の復位も子韋の遺した徳と教えのおかげである」と答えた。
賞罰の分担(韓詩外傳より)
- 子罕は宋君に「国家の安危は君の行いにある。爵禄・恩賞は人の喜ぶことゆえ君が自ら行い、殺戮・刑罰は人の嫌うことゆえ臣が引き受けたい」と申し出た。君は喜んでこれを許したが、一年も経たぬうちに刑罰の権が専ら子罕に帰し、大臣も百姓も彼を畏れるようになり、ついに子罕が政を専らにするに至った。老子の言う「魚は淵から出すべからず、国の利器は人に示すべからず」との教えが引かれる。
編者按
- (編者按)宋の官制では右師が最高位で司城は六卿の五番目に過ぎないが、子罕はその地位のまま政を執った。これは彼が賢であったからにほかならない。管仲の秩が高・国に及ばなくとも斉桓公がこれを用いて覇を成したように、子罕の位が華・向に及ばなくとも宋国はこれによって安んじた。「国に賢人あるは社稷の衛りなり」との言葉は、宋の子罕においてまことに信ずべきである。