- 履歴: 晋の悼公、名は周。桓叔の孫、恵伯談の子。周の単襄公に仕え徳行を評価され、厲公の乱後14歳で晋に迎えられ即位した。内政を整え諸戎と和睦し、鄭を服させて覇を回復したが、在位十五年ほどで三十歳に満たず薨じた。
悼公の出自と即位(國語・左傳より)
- (國語より)晋の孫談(桓叔の子恵伯談)の子周は、周に仕えて単襄公に事えた。立ち居振る舞いが正しく、言葉は敬・忠・信・仁・義・知・勇・教・孝・恵・譲のすべてに適っており、単襄公は「この者はやがて晋を得るだろう」と予言した。単襄公は病の床で頃公にもこれを告げ、周(悼公)の徳と、成公が生まれた際の吉夢(黒臀の名の由来)を語り、晋の相続がこの周に巡ってくると説いた。
- (左傳より)成公十八年、晋は厲公の乱の後、荀罃・士魴を周に遣わして周子(14歳)を迎え立てた。周子は「即位を望んでいたわけではないが、天命であり人々の求めに応じる」と述べ、大夫たちも忠誠を誓った。即位した周子は不臣の者七人を追放し、これが悼公である。
即位後の内政改革と人事(左傳・國語より)
- (左傳より)悼公は即位の朝、百官に施しを命じ、貧窮者・寡婦・孤児を救済し、困窮者を助け、災害に備え、淫らな行いを禁じ、税を軽くし、罪を赦し、器物・徴用を時節に応じて行い、民の意に反しないよう努めた。
- 魏相・士魴・魏頡・趙武を卿とし、荀家・荀会・欒黶・韓無忌を公族大夫として卿の子弟の教育にあたらせ、士渥濁を大傅として范武子の法を修めさせ、右行辛を司空として士蒍の法を修めさせ、祁奚を中軍尉、羊舌職を佐とし、魏絳を司馬、張老を候奄、鐸遏寇を上軍尉、籍偃をその司馬とするなど、各官にふさわしい人材を配した。これにより晋国は覇を回復した。
- (國語より)欒書・知武子・彘恭子らが悼公を周から迎えた経緯や、呉との戦功者・克潞の役の功臣の子孫を取り立てたこと(令狐文子=魏顆の子)、士貞子を大傅、右行辛を司空、欒糾を戎御、荀賔を戎右としたこと、公族大夫四人(荀家=惇恵、荀会=文敏、欒黶=果敢、韓無忌=鎮静)にそれぞれの性質に応じ卿の子弟を教育させたことなどが記される。
揚干の軍紀違反と魏絳(左傳・國語より)
- (左傳より)雞澤の会の際、悼公の弟揚干が曲梁で軍列を乱したため、魏絳はその御者を処刑した。悼公は怒り魏絳を殺そうとしたが、魏絳は自ら死を覚悟した上書を献じ、軍律を守った正当性を説いた。悼公はこれに感服して罰さず、むしろ高く評価して新軍を佐させた。
- (國語より)同様の経緯が語られ、魏絳の忠義と法の厳正さが称えられる。
諸戎との和睦(左傳・國語より)
- (左傳より)無終の嘉父が孟楽を遣わして虎豹の皮を献じ和睦を求めた際、悼公は戎狄討伐を考えたが、魏絳は「和戎に五利あり」と説いた。土地の交易、辺境の平穏、戎の助力による四隣への威嚇、軍事的疲弊の回避、后羿の故事に鑑みた徳治の要を挙げ、悼公はこれに従い魏絳に諸戎との盟約を結ばせた。以後、晋は覇権を回復した。
- (國語より)同趣旨の記述があり、魏絳の献策とその成果が語られる。
鄭・宋・陳をめぐる晋楚の争い(左傳より)
- 悼公即位後、晋は鄭・宋・陳などをめぐり楚と数度にわたり攻防を繰り返した。晋は諸侯を糾合して鄭を攻め、鄭はやむなく晋に服属したが、楚が来援するとまた楚に転じるということを繰り返した(子駟・子展らの間で晋楚いずれに付くか議論が交わされた)。
- 偪陽討伐(十年)では、秦堇父・狄虒弥ら勇士の活躍により偪陽を陥落させ、宋の向戌に与えた。
- 諸侯の連合軍はたびたび鄭を包囲し、最終的に鄭は晋に服属することとなった。
蕭魚の盟と鄭の服従、魏絳への恩賞(左傳・國語より)
- (左傳より)十一年、諸侯は鄭を攻め、蕭魚で会盟し鄭を服属させた。鄭の捕虜を赦し、略奪を禁じるなど寛大な措置を取った。鄭は晋侯に楽器・戦車・美女らを贈り、晋侯はその半分を魏絳に与えようとしたが、魏絳は「戎狄との和は君の徳であり、諸侯を九たび集めたのも臣下の功に過ぎない」と辞退しつつ、安楽に驕らず終わりを慎むよう諫めた。悼公はこれに感じ入り、恩賞を受けさせた。
- 十二年以降も士魴の聘問、晋悼公の蒐(軍事演習)、范宣子・荀偃らへの軍の統率の譲り合いなど、晋の卿たちが互いに謙譲する美風が続いたことが記される。
晩年の逸話と崩御(左傳・國語・史記より)
- (史記より)悼公は師曠に治国の道を問い、師曠は「ただ仁義を本とすべし」と答えた。
- (國語より)悼公が司馬侯と高台に登り「楽しいか」と問うと、司馬侯は「臣下を見下ろす楽しみはあっても、徳義の楽しみはまだない」と答え、羊舌肸(叔向)を挙げて太子彪(後の平公)の傅とするよう勧めた。
- (史記より)悼公が卒し、子の平公彪が立った。
編者按
- (編者按)楚の共王は覇を志し、晋の厲公の無道と鄢陵の勝利により驕り、内乱が生じた。悼公が即位すると楚は叛臣を受け入れて宋を苦しめ、諸侯は連合してその叛臣を討ち取り、宋を晋につなぎとめた。韓献子の「覇を成し疆を安んずるは必ず宋より始まる」の言葉通り、虚朾の会一度で晋は宋を得、虎牢の役二度で鄭を得た。宋を得るのは易しく鄭を得るのは難しかったのは、宋が元々晋に属し鄭は楚に属していたためである。陳は楚に近く久しく晋に服さなかったが、雞澤の盟以後晋に服し、晋もまた陳の去就に応じて緩急を使い分けた。これらは晋の君臣の巧みな計略であった。
- 楚は鄢陵の恥辱を晴らそうと陳・鄭の郊で兵を構えたが、虎牢の築城や叛者の討伐、蓄積した怒りにもかかわらず、鄭では起・蔡の釁を機に子囊が来伐し、子駟が両属策を取り、晋楚の勢力が拮抗する中、悼公は敢えて楚と刃を交えず、甲を収めて民を休ませ、退いて示し、怯を装って進み、不戦を勇とした。五たびの会盟で信を示し、三たびの出兵で威を示し、九たびの会合で和を示して鄭を服させ、原野に骨をさらすことなく覇業を成し遂げた。
- ある者は、衛人が君を追放しても誅さず、邾莒が魯を侵しても討たなかったことを非難するが、悼公の置かれた立場は文公・襄公の時よりも厳しく、斉・秦・強楚がなお健在で在位も短く、遠くまで兵を構える余裕がなかったからこそ、緩急を分けて対処したのであり、武を濫用しなかったまでである。和戎によって内を安んじ、呉と通じて楚を牽制する策は、遠交近攻の妙を得たものであり、鄬の会での陳の赦免は斉桓公の会盟に勝り、蕭魚での鄭の服属は晋文公の楚に対する勝利にも劣らない。天がもう少し長く年を与えていれば功業はさらに倍したであろうに、三十にも満たずして薨じた。諡を「悼」としたのも、まことに悼むべきことである。