繹史単献公・単成公(單獻公 單成公)
- 履歴: ともに周の卿士、単氏の当主。単献公は親族を軽んじて疎遠な者を重用したため一族に殺され、単成公が跡を継いだがまもなく卒した。
単献公の死(左傳より)
- 昭公七年、単献公は親族を退けて疎遠な羈を用いたため、冬十月辛酉、襄・頃の一族に殺され、単成公が立てられた。
単成公の人となりと死(左傳より)
- 昭公十一年、単成公は韓宣子と戚で会見した際、目線が下がり言葉が緩やかであった。晋の叔向はこれを見て「単子は間もなく死ぬのではないか」と評した。朝廷での立ち位置や会盟での服装・帯の結び方には序列を示す定めがあり、言葉と立ち居振る舞いはその位を明らかにするものであるのに、単子は王官の長でありながら会において作法を欠き、目線も帯の位置を越えず、言葉も歩幅の範囲を超えず、姿も容儀を示していない。道に外れ、敬意を欠き、事理も明らかでなければ、天寿を保つ気力もないと述べた。
- 同年十二月、単成公は卒した。