- 履歴: 周の卿成肅公。成公十三年(前578年)、劉康公とともに晋侯に従い秦討伐に赴いた際、祭祀の受脤の礼を怠り、まもなく没した。
受脤の不敬と劉子の論
- (左傳より)成公が諸侯とともに周王に朝見した後、劉康公・成肅公は晋侯に従い秦討伐に赴いた。その途上、成子(成肅公)は社(土地神)から受ける脤(祭肉)の儀礼を怠り不敬であった。劉子はこれを見て「民は天地の中庸の気を受けて生まれ、これを『命』という。それゆえ動作・礼義・威儀の則を定めて命を全うするのであり、よく務める者は福を得、務めぬ者は禍を招く。それゆえ君子は礼を勤め小人は力を尽くす。礼を勤めるには敬を尽くすこと、力を尽くすには篤実を尽くすことが肝要で、敬は神を養うことにあり、篤実は職分を守ることにある。国家の大事は祭祀と軍事にあり、祭祀には膰(祭肉)を執り行い、軍事には脤(社の祭肉)を受けるのが、いずれも神に関わる大切な儀礼である。今、成子はこれを怠っている、恐らく生きて帰ることはあるまい」と述べた。果たして成肅公はその子瑕を残して途上で没した。
- (公羊傳・榖梁傳より)成公が周王のもとへ赴いたことを「京師より」と記した理由(天子を憚り、私に道を進まなかったこと)、また月を記さず「京師に如く」と記さなかった理由(周への叛意なく王命に従った意を示すため)についての解釈を付す。