- 履歴: 召戴公・毛伯衛はともに周の卿。宣公十五年(前594年頃)、王孫蘇と召氏・毛氏の政争の中で王子捷(王札子)に殺された。
毛召の難
- (左傳より)王孫蘇が召氏・毛氏と政権を争い、王子捷(王札子)をして召戴公・毛伯衛を殺させ、召襄(召氏の後継)が立てられた。
- (公羊傳・榖梁傳より)王命を矯めて臣下を殺すという行為が、天に代わって民を治めるべき君臣の道を損なうものであることを論じる。
- (左傳より)翌年、毛召の乱を発端として王室は再び乱れ、王孫蘇は晋に出奔したが、晋人がこれを周に復帰させた。冬、晋侯は士会(隨会)を遣わして王室の争いを鎮め、定王はこれを饗応した。原襄公が礼を執り行い、殽烝(骨付きのまま供する肉)でもてなした際、武季(士会)が私かにその理由を問うたことを王が聞き、召武子(士会)に「享の礼には体薦、宴には折俎があるのが王室の礼であるのを知らぬのか」と告げた。士会は帰国後、典礼を講究して晋国の法制を整えた。
- (国語より)同じ出来事の詳細な異伝。定王は士会に対し、郊禘の全烝・王公の立飫における房烝・親戚の宴饗における殽烝という祭祀・饗宴の格式の別を説き、さらに戎狄など礼を弁えぬ者への体薦(骨ごと分け与える簡略な饗応)との違いを説き、王公諸侯の宴礼が徳を示し民を教化する意義を持つことを詳しく論じた。士季(士会)はこれに恐縮して退き、帰って三代の典礼を講究し、晋の法制(執秩)を整えるに至った。