鍾儀の故事と晋楚和議の兆し
- (左傳より)楚が鄭を攻めた際に捕らえられた鄖公鍾儀は晋に送られ、晋侯が獄中で見出して問答した。鍾儀は先祖の官職(楽人)を名乗り、望郷の楽(南音)を奏で、楚君(共王)への忠節を語った。范文子はこれを「楚囚は君子である」と評し、晋侯に厚遇のうえ帰国させて晋楚の和議を進めさせるよう勧めた。
華元の周旋による晋楚の講和
- (左傳より)宋の華元は楚の子重・晋の欒武子の双方と親交があり、両国の間を奔走して講和を仲介した。晋の郤至・楚の公子罷らが互いに聘問・会盟し、宋の西門外で「凡そ晋楚相加えず、好悪を同じくし、患難を共に救う」との盟いを結んだ。
交剛の戦いと郤至の楚聘問
- (左傳より)狄が宋楚の盟いに乗じて晋を侵したが、晋は交剛でこれを撃退した。晋の郤至が楚に聘問した際、楚子が地下室に楽人を隠して歓待しようとしたが郤至は驚いて辞去し、子反との間で「享宴の礼」の意義をめぐる問答が交わされた(郤至は「両君が相見えるのに武を誇示するのは礼にあらず」と論じた)。范文子はこの一件を聞き「無礼な振る舞いは必ず食言を招く、私はまもなく死ぬだろう」と予言した。
鄭の離反と開戦への流れ
- (左傳より)楚は鄭・衛を侵し、鄭は楚と結んで晋に叛いた。晋の范文子は「諸侯がすべて叛けば晋は却って安泰だが、鄭だけが叛けば国の憂いとなる」と述べつつ、欒武子の主張で鄭討伐が決定された。楚も鄭救援のため出師し、申叔時は楚の徳・刑・義・礼・信が衰えていることを理由に「この戦で楚は勝てまい」と予言した。
鄢陵の戦い
- (左傳より)晋楚両軍は鄢陵で対陣した。范文子は開戦に消極的で、郤至は「先君以来の恥を雪ぐ好機」と主戦を説き、苗賁皇(もと楚人)は「楚の精鋭は王卒のみ、左右軍は統制を欠く」と分析して晋侯に献策した。占いでも吉と出、晋軍は左右から楚の左右軍を撃ち、中軍を王卒に集中させる作戦を採った。
- (左傳より)戦闘中、晋の呂錡は夢占いにより「共王を射て自らも死ぬ」ことを予感しつつ出撃し、実際に共王の目を射たが自らも楚の養由基に討たれた。楚の養由基は共王から矢を与えられ呂錡を討ち取った。晋の郤至は戦場で三度楚子(共王)と遭遇するたびに車を降りて敬意を示し、共王は工尹襄を遣わして「よく識別して礼を尽くす者だ」とその礼節を賞した。
- (左傳より)双方に一進一退の戦いが続き、楚の潘尫の党・養由基らが甲を七重に貫く弓勢を示し、晋の欒鍼は楚の子重の旗を認めて使者を送り酒を勧めるなど、戦場にも礼を尽くす場面が見られた。
- (韓非子より)楚共王が渇いた司馬子反に豎の榖陽が酒を勧め、子反は酔って軍務に応じられなくなり、共王は「司馬が酔って軍事を怠るとは、これは楚国の社稷を滅ぼすに等しい」として退兵を決め、のちに子反を大戮に処したという異伝(先行する説苑等に見える宋包囲の際の類話とは別の伝として記される)。
- (左傳より)最終的に楚軍は夜のうちに退却し(子反が酔って王の召しに応じられなかったことが直接の引き金となったとする)、晋軍は楚の陣営に三日とどまった。范文子は勝利を喜ばず「君は幼く諸臣も未熟、これほどの勝利を得たことをかえって戒めとすべきだ」と述べた。
- (国語より)范文子が開戦前後に繰り返し慎重論を説いた経緯(外に憂いなく内に憂いなきは聖人のみなし得ることで、あえて外患を存して内憂を防ぐべしとする論)を詳述し、勝利後に厲公が驕り重税を課し婦人を寵愛したことが、後の三郤誅殺・厲公弑逆という内乱の遠因になったと結ぶ。
戦後の外交
- (左傳より)鄢陵の戦い後も晋楚双方は鄭をめぐって攻防を続け、知武子(荀罃)が陳・蔡を侵し、諸侯は柯陵で会盟して鄭再討伐を謀った。
楚共王の死と諡の議論
- (左傳より)楚共王は死に臨み、自らが即位十年にして先君を喪い、師保の教えを十分に受けぬまま多くの福を受けた不徳を悔い、「霊」または「厲」の悪い諡を望むと大夫に告げたが、諸大夫は五度固辞の後にようやく受け入れた。共王没後、令尹子囊は「赫赫たる楚国に臨み、蛮夷を撫し南海を征して諸夏に列せしめ、その過ちを知っていたのだから、共(つつしみ深い)の諡がふさわしい」として「共」の諡を定めた。
編者按
- 晋厲公は在位八年で三度も魯に援軍を求めるほど衰えを見せたが、その一方で交剛で狄を破り、麻隧で秦に勝ち、鄢陵で楚を破るという輝かしい戦果を挙げた。しかしその内実は、両軍の陣が整わぬうちに険を頼んで楚に迫り、軍紀も緩みがちな中で呂錡の矢がたまたま共王の目を射抜いたに過ぎず、成算あっての勝利ではなかった。それにもかかわらず厲公は「楚に勝てる」と驕り、范文子は内乱の兆しを見抜いて深く危惧し、勝利の後もあえて君に徳を勧め、自らは死を願うほどであった。楚の側では、郤至の盟いに対し子反が信を守れず、鄢陵の敗戦も、深く潰えぬうちに酔った子反のために撤退を余儀なくされたものであり、共王は雪辱の機会を狙い続けた。晋がその後三たび鄭を伐っても楚は必ず救援に赴き、共王は一度の敗北を戒めとしてなお常勝の勢いを保ち、悼公の三度の遠征をもってしても揺るがなかった。ましてや区区たる厲公ごときが太刀打ちできるものではなく、共王が「共」の諡を選んだのも、社稷の恥を胸に抱いたまま没した無念のゆえであろう。