繹史陳の夏氏の乱(陳夏氏之亂)

単襄公の予言

  • (國語より)定王の使者単襄公が陳を通過した際、道が荒れ迎接の礼が整わないのを見て、陳霊公が孔寧・儀行父と共に夏氏の館に入り浸り客を迎えないことを知った。単襄公は帰って王に、先王の教え(道路整備・賓客の礼など)がことごとく廃れ、加えて霊公が正妻を顧みず夏姫に淫し、姫姓の冠を脱いで南冠(楚風の冠)を着けたことを「姓を瀆し彝を簡(かろん)ずるもの」と非難し、「陳侯に大きな咎がなければ、国は必ず滅びる」と予言した。この予言通り、後に陳侯は夏氏に殺され、楚が陳に入った。

洩冶の諫死

  • (左傳より)陳霊公は孔寧・儀行父と共に夏姫の下着を身につけて朝廷で戯れた。大夫洩冶が諫めたが、霊公は二子に告げただけで、二子は洩冶を殺すことを求め、霊公はこれを禁じず洩冶は殺された。孔子はこの事件を「民の多辟、自ら辟を立つることなかれ」の詩句に重ねて評した。
  • (榖梁傳・列女傳より)同事件の異伝。夏姫の美貌と、霊公・孔寧・儀行父が入れ替わりその衣を身に着けて戯れたこと、洩冶の諫言と殺害の経緯を詳述する。

「株林」「沢陂」の詩

  • (詩より)「株林」は霊公が夏姫に淫して株林へ通う様を刺る詩、「沢陂」は君臣が共に淫することを憂える詩とされる。
  • (說苑より)陳霊公の悪政と洩冶の諫めをめぐる論評。洩冶は「君主の言動は千里の外にまで及ぶ」と説いたが霊公は聞き入れず、後に夏徴舒に弑された。

夏徴舒の弑逆

  • (左傳・史記より)霊公が夏氏の館で孔寧・儀行父と酒宴を開き、徴舒(夏姫の子)を戯れに侮辱したことに怒った徴舒が霊公を弓で射殺した。孔寧・儀行父は楚に奔り、太子午は晋に奔った(編者按: 左氏は徴舒の自立を明記していない)。

楚荘王の陳討伐と復封

  • (左傳より)楚荘王は夏氏の乱を理由に陳を伐ち、夏徴舒を殺して陳を県としたが、申叔時の諫め(「牽牛を以て人の田を蹊するも、その牛を奪うは罰重きに過ぐ」の喩え)を容れ、陳を復封して郷ごとに一人だけを連れ帰った(これを夏州という)。春秋は「楚子入陳、公孫寧・儀行父を陳に納る」と書き、これを礼とした。
  • (公羊傳・穀梁傳より)楚の内政干渉を「実は与するが文としては与しない」とする解釈上の議論。
  • (家語より)孔子が「賢なるかな楚王、千乗の国より一言の信を重んず」とこの一件を讃えた。

楚荘王の陳伐に関する別伝

  • (說苑より)楚荘王が使者を遣わして陳を伐つべきか視察させ、城郭が高く蓄積が多いことを理由に「賦斂が重く民が怨んでいる」と判断してこれを伐った逸話、また呉が陳を援けた際の楚軍の戦術に関する逸話を付す(編者按: この二事は陳靈公が政治を怠っていた時期の記述としては年代が合わず、荘王の臣・左史倚相の記述にも疑問があるとする)。

編者按

  • 「株林」「沢陂」は霊公の無道を刺る陳風の詩である。霊公は政令を怠り荒廃させ、夏氏の館で朝夕遊興に耽り、弑逆を招いた。洩冶はその滅びを予見して諫めを曲げず、その忠諫は国に益するところ大であった。孔寧・儀行父は悪を助長して洩冶を殺害させる禍を成した。楚人は南方に威を張り機に乗じて動く智を備えており、荘王の覇業は成・穆の盟いを継ぐものであったが、陳を討った名目は罪を討つことにあっても実は陳を併呑する貪欲によるものであった。世論の一致を得られず夏州を立てて姫氏を誅さず、その乱臣を庇うようなありさまでは、覇者の討伐と呼べるのか疑わしい。徴舒の弑逆を車裂きに処したのは正しい処置だが、孔寧・儀行父が忠臣洩冶を殺させた罪も同様に問うべきであり、夏徴舒を誅して霊公に謝すならば、孔寧・儀行父を誅して洩冶に謝すべきであった。それにもかかわらず楚は二子の先導によって陳に強引に入り乱を治めたとし、左氏がこれを「礼あり」と評したのは春秋の許すところではないのではないか。