霊公擁立をめぐる争い
- (左傳より)晋の襄公没後、後継をめぐり趙盾(趙孟)は公子雍の擁立を、賈季は公子楽の擁立を主張したが、趙盾が賈季を退け、秦から公子雍を迎えさせた。しかし太子の母穆嬴が朝廷で泣訴し、趙盾ら大夫は穆嬴を憚って結局幼い太子(霊公)を立て、秦を迎撃する軍を編成した。
- (左傳より)令狐の戦いで晋軍は秦軍を破り、秦へ向かっていた先蔑・士会は秦にとどまることになった。荀林父が先蔑を思いとどまらせようとした逸話、士会が秦にあって同僚として扱われた経緯を付す(公羊傳・穀梁傳の評も付記)。
秦との攻防(令狐・河曲)
- (左傳より)秦が令狐の役の報復に晋を攻め、その後も晋秦は武城・少梁・北徴などを巡って一進一退の攻防を続けた。
- (左傳より)河曲の戦いでは、晋の臾駢の持久策や趙穿の独断専行、秦の夜間の欺瞞策などが絡み合い、決着のつかぬまま秦軍は夜に退いた。
- (國語より)韓厥が軍法を厳格に執行し趙盾の車を戮した逸話。趙盾はこれを咎めず、韓厥の公正さを称えて重用を約した。
- (詩・無衣より)秦人が用兵を好む君主を刺る詩とされ、令狐・河曲の頻繁な戦いを背景とする説がある(鄭譜・朱子の異説を割注)。
士会の秦への出奔と帰還
- (左傳より)晋は秦にある士会の存在を憂い、魏寿余が偽って晋に叛いたふりをして士会を誘い出す計略を用いた。士会は秦伯に「晋人は虎狼のようだ、もし約束を違えれば妻子を殺されよう」と懸念を示したが、秦伯は誓ってこれを保証し、士会は魏人の計略に乗じて無事に晋へ帰還した。秦の繞朝は士会に策を贈り「秦に人材なしと思うな、我が謀が用いられなかっただけだ」と言った。
靈公の暴政
- (說苑より)晋霊公が九層の台を築こうとし、諫める者を斬ると宣言したが、孫息が博棊と鶏卵を積む芸を通じて危機を諭し、霊公は自らの過ちを悟って台の造営をやめた。
- (左傳より)霊公は「君たる道」を守らず、重税で牆を彫飾し、台上から人に弾を放って避ける様を見て楽しみ、料理人が熊の掌を生煮えにしたことに怒って殺し、遺体を運ばせた。趙盾・士季がこれを見て諫めようとした。士季の諫めに霊公は一旦改心を約したが改めなかった。
趙盾暗殺の失敗と提彌明・霊輒
- (左傳より)霊公は刺客鉏麑を放ったが、鉏麑は朝の支度をして端座する趙盾の姿に敬意を打たれ、忠と信のどちらも損なうことを恐れて槐に触れて自殺した。
- (左傳より)霊公は酒宴に趙盾を招き伏兵を仕掛けたが、車右の提彌明がこれを見抜いて趙盾を助け出し、放たれた猛犬を撃ち殺した。以前、趙盾が翳桑で飢えていた霊輒を助けたことがあり、霊輒はこのとき霊公の徒卒の中にいながら趙盾を守り恩に報いた。
- (左傳より)趙穿が桃園で霊公を弑した。趙盾は国境を越えず、逃げていなかったため、太史の董狐は「趙盾弑其君」と直書した。孔子はこれを「董狐は良史、趙盾は良大夫であるが法のために悪名を受けた、惜しいことだ」と評した。趙盾は趙穿を遣わして公子黒臀を周から迎え立てた。
- (國語・呂氏春秋・史記より)同事件の異伝を付す。呂氏春秋・史記では、趙盾が翳桑で助けた餓人(示眯明/霊輒)が後に趙盾の危機を救ったとし、猛犬を撃ち殺したのも示眯明とする(左氏とは人物の割り振りが異なる。編者按: 霊輒と提彌明を同一人物に混同した誤りではないかとする)。
董狐の書法をめぐる評
- (榖梁傳・公羊傳より)実際に弑逆したのは趙穿だが、正卿でありながら国境を越えず逃げず、帰って賊を討たなかった趙盾に罪を帰したとする論。趙盾自身も天を仰いで無実を訴えたが、史官は「仁義を為すべき者が弑逆を見過ごし、復国してなお討たない以上、弑逆と同じだ」と断じた。
編者按
- 霊公を実際に弑したのは趙穿であるのに、春秋は「晋趙盾弑其君」と書し、伝は「趙盾が亡命せず、君が弑されてなお趙盾は復位した」ことを理由に董狐が直書したと説くが、孔子がこれを良大夫と称えたのは、趙盾が弑逆に関与していないなら過酷に過ぎ、関与していたなら趙穿が代わりに悪名を負う理不尽が生じるとし、いずれにせよ趙盾の心中に問うべきものがあるとする。霊公の暴虐(台上から弾を放つ、熊掌の一件など)は生来の性ではなく、趙盾が幼君を導かず、私党を立てて国政を専らにしたことにも一因があるとし、桃園の変で趙穿が民の支持を得られぬまま弑逆に及び、趙盾がこれを迎え入れて共に朝に立ったことを「志同じ」とする董狐の判断を支持し、春秋の大義はここに炳然と示されているとする。