繹史秦穆公、西戎に覇たり(秦穆公霸西戎)

芮伯の出奔(背景)

  • (左傳より)桓公3年、芮伯萬の母芮姜が芮伯の寵愛の多さを憎んで彼を逐い、萬は魏に出奔した。桓公4年、秦師が芮を侵して敗れ、冬に周王師と秦師が魏を囲んで芮伯を捕らえて帰った。桓公10年、秦人は芮伯萬を芮に帰した。(割注に紀年・水経注の異伝を付す)

百里奚の登用

  • (史記より)晋が虞を滅ぼした際に捕らえた虞の大夫百里傒は、秦繆公夫人の媵として秦に送られる途中に逃げ、楚の鄙人に捕らえられた。繆公は五羖羊の皮で彼を贖い、国事を語らせて感服し「五羖大夫」と号した。百里傒は自らより賢い友・蹇叔を推薦し、繆公は厚幣で蹇叔を上大夫に迎えた。
  • (呂氏春秋より)虢を出て晋に虜となり秦で牛飼いをしていた百里奚を、公孫枝が見出して繆公に推挙し重用させた経緯。
  • (說苑より)塩を運ぶ商人に売られていた百里奚を、繆公が牛の肥え具合から見出して登用し、公孫支(公孫枝)がその賢を知って自ら上卿の位を百里奚に譲った顛末(割注に荘子の逸話)。
  • (韓詩外傳より)秦の大夫禽息が百里奚を推薦しても用いられず、自ら頭を打って死をもって諫めたため繆公が感悟し百里奚を用いたという異伝(割注に後漢書注・論衡等の異説)。
  • (呂氏春秋より)百里奚が秦の相となった後、晋・斉の使者への応対をめぐる公孫枝の処遇の話(割注に風俗通に見える百里奚の妻の故事)。

梁国の滅亡

  • (左傳より)梁伯は土木を好み、民を酷使したため民心が離れ、秦がついに梁を取った。
  • (榖梁傳・公羊傳・春秋繁露より)梁の滅亡は自ら招いたものであり、民を酷使した咎であるとする論評。

殽の戦い

  • (左傳より)晋文公の死後、鄭の杞子が内応を約したため、繆公は蹇叔の諫めを退けて孟明・西乞・白乙に出師させた。蹇叔は出師を見送りつつ哭し、必ず殽で敗れると予言した。周を過ぎる際の秦軍の無礼を王孫満が見抜き、鄭の商人弦高の機転で秦軍は鄭を襲えず滑を滅ぼして引き返したが、晋の先軫の進言で殽にて迎撃され三帥は捕らえられた。のち文嬴の請いで三帥は釈放され、秦伯は喪服で郊に出て自らの過ちを認めた。
  • (國語・公羊傳・穀梁傳より)同事件の異伝と、経文の書き方(夷狄として扱う表現など)をめぐる解釈。
  • (呂氏春秋より)蹇叔の諫言と弦高の機転、先軫の進言による殽の戦いの経緯を詳述(割注に淮南子・高士傳・說苑の関連異伝)。

彭衙の戦いと孟明の雪辱

  • (左傳より)殽の敗戦の責を秦伯は自ら負い、なお孟明を用い続けた。彭衙で秦軍は再び敗れた(狼瞫の勇戦の逸話を含む)が、孟明は徳を修めて国政に努めた。
  • (左傳より)その後晋が秦の汪・彭衙を取り、秦伯は自ら河を渡って王官・郊を取り、殽の戦死者を弔って、ついに西戎に覇を唱えた。
  • (史記・書(秦誓)より)秦繆公は蹇叔・百里奚の言を用いなかった過ちを誓文に記して後世への戒めとした(秦誓の成立事情についての書序の異説を割注)。

由余を得て西戎を覇す

  • (史記より)戎王の使者由余は秦の栄華を見て「これこそ中国が乱れる原因」と評した。繆公は由余の賢を懸念し、内史廖の策で戎王に女楽を贈って由余を疎んじさせ、ついに由余を秦に帰順させて戎の情勢を得、西戎の国十二を併せて地を千里広げ覇を唱えた。
  • (韓非子より)同様の経緯を、由余が「倹約こそ得国の道」と説いた問答とともに記す。
  • (呂氏春秋・史記より)女楽で戎王を惑わせ生け捕った顛末、および秦が服属させた西戎諸族の範囲を記す。

穆公晩年の逸事

  • (左傳より)晋が秦を攻めて王官の役に報い、鄀をめぐる小さな衝突が続いた。
  • (論衡・列子より)穆公が鄭衛の淫楽を好まなかったこと、伯楽と九方皋による名馬選びの説話(外見でなく本質を見る眼力の比喩)。割注に簫史・弄玉の仙譚や尚書中候の瑞祥伝説も付す。

三良殉死と「黄鳥」の詩

  • (左傳より)穆公の没後、子車氏の三子(奄息・仲行・鍼虎)が殉死させられ、国人はこれを哀しみ「黄鳥」の詩を賦した。君子はこれを、良臣を奪ってまで殉死させたことが秦が二度と東征できなくなった原因だと評した。
  • (詩・黄鳥より)詩文の要旨と、応劭注に見える生前の酒宴での約束にもとづく殉死の経緯。
  • (史記より)殉死者は177人に及んだ。穆公の子は四十人おり、太子罃が立って康公となった。

康公の代

  • (公羊傳・詩序より)康公が父穆公の遺業と賢臣を忘れたことを刺る「晨風」「権輿」の詩の由来。
  • (韓非子より)康公が三年かけて築いた台の完成間近、荊(楚)が斉を攻めようとしたのは実は秦を襲う布石ではないかと臣下が警戒し、備えたことで荊軍が退いた逸話。

編者按

  • 斉桓公の死後、晋文公が興るまでの八年、覇者は不在であったが、これを継いだのが秦穆公である。晋の内乱を二度収拾し文公の覇業を助けたのは穆公の功で、斉桓公にもできなかったことである。鄭を襲った不義、殽での敗戦とその悔過、彭衙での雪辱、悔過によって西戎を覇した経緯まで、秦穆公の生涯はこの一巻に尽くされている。書(秦誓)はその悔過を記し、詩(黄鳥)はその殉死の非を譏っており、その用人の法は戒めとするに足り、その乱命は戒めとするに足るとされる。