繹史晋文公の覇業(上・驪姫の乱)(晉文公霸業(上)(驪姬之亂))
献公の驪戎討伐と占いの凶兆
- (国語より)献公が驪戎を討とうと占うと、史蘇は「勝つが吉ならず、口舌の禍が国を乱す」と占った。献公は聞かず驪戎を破って驪姫を得、寵愛して夫人に立てた。史蘇は諸大夫に「男戎に勝てば女戎に敗れる」として、夏の妹喜・殷の妲己・周の襃姒の故事を引き、驪姫の寵愛が国を滅ぼすと予言した。
- (国語より)士蒍・郭偃も「三代の乱王のように放縦に流れれば亡国は必至」と危惧を表明した。
二五(梁五・東関嬖五)の策謀と諸公子の分封
- (左伝・国語より)献公は賈に娶り申生を得、さらに戎から重耳・夷吾を得た。驪戎討伐で得た驪姫は奚齊を、その娣は卓子を生んだ。驪姫に賂われた梁五・東関嬖五(二五)は「太子は曲沃、重耳は蒲、夷吾は屈を守るべき」と献公に勧め、これにより太子申生と二公子は都から遠ざけられ、驪姫の子のみが絳に留まった。
驪姫の申生讒殺
- (左伝・国語・史記より)驪姫は優施の助言を得て申生を陥れる計を進めた。申生に曲沃で亡母・齊姜を祭らせ、その胙(供え物)を献公に献じさせた上で毒を仕込み、「賊は太子による」と讒言した。献公は怒り申生の傅・杜原款を殺し、申生は新城で自ら縊死した。
- (礼記・国語より)申生は「君は驪姫あってこそ安んじ、自分が弁明すれば驪姫に罪が及ぶ」として自ら弁明を拒み、狐突に「君を頼み国家の後事を託す」と言い残して死んだ(「恭世子」と諡された)。
- 驪姫はさらに重耳・夷吾も「共犯」として讒言し、重耳は翟へ、夷吾は屈から梁へと逃れた。
重耳・夷吾の出奔
- (左伝より)献公は寺人披を遣わして蒲を攻めさせ、重耳は「君命に逆らわず」として抵抗せず垣を越えて逃げたが、披に袪(袖)を斬られた。重耳は翟へ、夷吾は屈から梁へ逃れた。
二五・驪姫の内部工作と里克・丕鄭の対立
- (国語より)驪姫は優施を使って里克を酒宴で懐柔し、「暇豫の歌」で暗に奚齊擁立への中立を促した。里克は「中立を守る」と約し、丕鄭は「中立では御しやすい、むしろ疑わせる方がよい」と評した。
献公の死と奚齊・卓子の弑逆
- (左伝・国語より)献公は荀息に奚齊を託し、荀息は「忠貞を尽くし、成らずば死をもって継ぐ」と誓った。献公の死後、里克は奚齊を次(喪の場)で弑し、荀息はなお卓子を立てて葬礼を行ったが、里克は朝廷で卓子をも弑し、荀息はこれに殉じて死んだ。
- (公羊伝・穀梁伝・礼記より)荀息の忠義は「不食其言(言葉を違えず)」と称えられ、白圭の詩に喩えられた。
- (国語より)荀息と里克・丕鄭の間のやり取り、丕鄭が「義を廃してまで富を頼めば怨みを買う」と里克を諫めた経緯を詳述する。
夷吾の入国(恵公即位)と秦への背約
- (左伝・国語・史記より)郤芮は夷吾に秦への重賂を勧め、里克・丕鄭も秦に通じて夷吾を擁立した。秦穆公は公子摯を遣わして重耳・夷吾双方を弔問させたが、重耳は辞退し、夷吾は厚く賂して秦の支持を得た。秦の公孫枝は「不仁の弟(夷吾)を立てて後の憂いとするか、仁の兄(重耳)を立てて怨みを買うか」の得失を論じ、結局夷吾(恵公)を立てて秦に恩を売る策を採った。
- (左伝より)恵公は即位後、約束した里克・丕鄭への封地、秦への割譲地(河外五城)をことごとく反故にした。恵公は「先君に功なき者に位を与えられぬ」として里克を殺し、里克は「廃立なくば我なし、罪を着せるに辞は要るまい」と伏剣して死んだ。丕鄭も秦に使いした後、恵公により誅殺された。
太子申生の託宣と恵公の疑心
- (左伝より)恵公は共太子(申生)を改葬したが、狐突は夢に申生の霊から「秦に晉を与えるよう帝に請うた」との託宣を受け、恵公の非道を暗示する記事を載せる。
秦晉の交誼破綻と乞糴・韓原の戦い
- (左伝・国語より)晉が飢饉の際、秦は「君の非を民に及ぼすべからず」として粟を輸送し救援した(汎舟の役)。しかし秦が飢えた際、晉の虢射は「皮なくして毛は付かぬ」として拒否を主張し、恵公はこれに従い秦への救援を拒んだ。慶鄭は「施しを忘れ災いを喜ぶは不仁、四徳を失えば国を守れぬ」と強く諫めたが聞かれなかった。
- (左伝・国語・史記より)秦は怒って晉を攻め、僖公十五年、韓原の戦いで恵公は乗馬(小駟)の不調もあり秦軍に敗れ捕らえられた。秦の穆公夫人(恵公の姉)が喪服で助命を嘆願し、天子も同姓のよしみで仲裁したため、恵公は盟を結んで釈放された。
- (呂氏春秋・史記より)秦の野人三百人が、かつて穆公の馬を食べても罰せられなかった恩に報いるべく韓原の戦いで奮戦し、穆公の危機を救ったという逸話を併せ記す。
恵公の帰国と慶鄭誅殺
- (左伝・国語より)恵公は帰国に際し国人へ「爰田」「州兵」の新制を布いて軍備を強化した。帰国後、韓原で敗軍の因を作ったとして慶鄭を誅殺した。呂甥(陰飴甥)は秦との盟で「小人は復讐を望み、君子は徳を慕う」と国論を巧みに述べ、秦穆公は「これぞわが心なり」と恵公を厚遇して帰国させた。
太子圉の質入りと逃亡、懐公の即位
- (左伝より)恵公十七年、太子圉が秦へ人質として送られたが、二十二年、圉は秦公女(嬴氏)を残して晉へ逃げ帰った。恵公二十三年、恵公は薨去し圉が懐公として即位。懐公は亡命者(重耳一派)への追随者に帰国を命じ、従わなかった狐突を「子は重耳に従っているのに帰らせよ」と迫って処刑した。卜偃は懐公の苛政を憂えて隠棲した。