繹史鄭穆公の即位(霊公弑逆を付す)(鄭穆公之立(靈公之弑附))

  • 履歴: 鄭文公の庶子・蘭(穆公)。母は燕姞。文公が他の公子をことごとく退けたため、晉に出奔していた蘭が晉文公の後ろ盾を得て太子に立てられ、文公没後に穆公として即位した(前627年頃即位)。在位中に子の靈公が弑される事件が起きる。

穆公の出自と即位

  • (左伝より)僖公二十四年、鄭の公子華・子臧はいずれも罪により殺され、文公は多くの公子を国外に逐った。晉に出奔していた公子蘭は晉文公に厚遇され、晉の鄭包囲の際に太子として擁立されることを条件に和議が成った。
  • (史記より)鄭の大夫石癸は「蘭の母は姞姓で后稷の元妃の裔、必ず興る家系」として蘭の太子擁立を支持した。
  • (左伝より)文公三十一年、洩駕・鄭伯に憎まれた公子瑕は楚に出奔し、後に鄭を攻めて敗死した。宣公三年、穆公は薨去。文公が夢に天使から蘭を賜った故事(蘭に国香ありとの予言)が生誕譚として伝わる。
  • (左伝より)穆公は病の床で「蘭(自らの名の由来の蘭草)が枯れれば我も死ぬだろう」と語り、蘭が刈られると本当に薨去したという逸話を記す(墨子には穆公が神(句芒)に出会い長寿を約束された異伝も引く)。

靈公の弑逆(子公・子家の争い)

  • (左伝より)宣公四年、楚から黿(すっぽん)が鄭に献じられた際、公子宋(子公)の指が動いたことから「異味を味わう予兆」と冗談を言ったが、靈公はこれを聞き子公にわざと黿の羹を与えなかった。怒った子公は鼎に指を突っ込んで味見し退出した(「染指」の故事)。靈公が子公を殺そうとしたため、子公は先手を打って子家と共に靈公を弑した。
  • (左伝より)「鄭公子帰生(子家)其君夷を弑す」と記されるのは、子家の権力が足りず主導しえなかったためとされる。君子は「仁なれど武なし、成し遂げられぬ者なり」と評した。
  • (左伝より)鄭人は子良(去疾)を立てようとしたが辞退し、賢を理由に公子堅(襄公)が立てられた。穆公の一族(穆氏)はその後も大夫として存続した。
  • (左伝より)宣公十年、鄭人は靈公弑逆の罪を糾し、子家の棺を斲って一族を逐い、靈公を改葬して諡を「靈」と改めた。

編者按

  • 鄭文公の六子のうち穆公のみが存し、蘭の夢・燕姞の吉祥の伝説が子孫の繁栄を予言していたとし、桓公・武公以来の周室輔弼の功業が鄭の家系に必興の理をもたらしたと総括する。
  • 穆公の十三子のうち靈公は弑されたが、残る七族(罕・駟・良・游・豐・國・印の七氏)が代々大夫を世襲し「七穆」と呼ばれ、春秋を通じて鄭の政権を担ったことを盛事として結ぶ。