繹史王子帯の乱(王子帶之亂)

帶の乱の発端

  • (左伝より)恵王の末子・王子帶(甘昭公)は母の恵后に寵愛され、恵王薨去後も襄王はその難を恐れ喪を発せずにいた。僖公十一年、揚拒・泉臯・伊雒の戎が帶に呼応して王城に侵入し東門を焼いたが、秦晉が救援し戎難を退けた。
  • (左伝より)僖公十二年、襄王は戎難の咎で帶を討ち、帶は斉へ出奔。斉桓公は管仲・隰朋を遣わして戎と周・晉の和を図らせ、周はその功に上卿の礼で報いようとしたが、管仲は「陪臣に過ぎぬ」として謙譲し下卿の礼を受けた。

帶の帰還と鄭への戎使嗾

  • (左伝・国語より)僖公二十二年、富辰の諫めにより帶は斉から召還され京師に戻った。
  • (左伝・国語より)僖公二十四年、鄭が滑を伐った際、鄭伯が周の使者を捕らえたことに襄王が怒り、狄の兵で鄭を討とうとした。富辰は「兄弟の小忿を理由に大徳を捨ててはならない」と繰り返し諫めたが聞き入れられず、王は狄の女を后に立てようとした。富辰は「婚姻禍福の階なり」とさらに諫めたが聞かれなかった。

狄后廃立と帶の簒奪

  • (左伝・国語より)恵后が生前寵愛した帶が狄の隗氏と通じ、王が隗后を退けると、頽叔・桃子ら狄の与党は「われらが狄を招いた責めを負う」として帶を奉じ狄兵で王城を攻めた。襄王は坎埳に出奔し、のち鄭の氾に居を移した。帶は隗氏とともに温に居した。
  • (国語より)富辰は「かつて度々諫めて用いられなかった以上、今度は自ら死をもって責めを負う」として狄との戦いで戦死した。

晉文公の勤王と乱の平定

  • (左伝・国語より)襄王は秦・晉に難を告げ、晉の狐偃は「諸侯を得るには勤王に如くはなし」と文公に進言。文公は秦師を辞して自ら王を送り、陽樊・温を経て王城に入り、隰城で帶を誅殺した。
  • (左伝・国語より)王は文公に地を与えようとし、隧(王のみが用いる葬礼の制)を求められたが「二王あるに等しい」として拒み、代わりに陽樊・温・原・欑茅の田を与えた。晉はこれにより南陽を開いた。
  • (左伝・国語より)陽樊の民が服さず包囲すると、倉葛は「王の親姻の民をどうして虜にできようか」と呼びかけ、文公はその民を解放した。原の民に対しても、三日の期限を守り、降伏の兆しがあっても信義を優先して一旦兵を退いた話(原に信を得た逸話)を記す。

編者按

  • 王子帶の乱は襄王の母弟が寵を恃んで嫡子の位を脅かした事件で、斉桓公はこれを未然に鎮め、晉文公はすでに乱れた後にこれを平定したとし、両者とも周室に功があったと総括する。
  • 帶が幾度も赦されては禍を繰り返したことを「姑息の弊」とし、晉が隧を求め河陽の会(後出)で天子を諸侯の礼に呼びつけるに至る周室衰退の萌芽をこの一連の事件に見出し、「王なくして後に霸あり」との歴史観を示して結ぶ。