- 履歴: 紀国(今の山東半島)は小国ながら周王室と姻戚関係(紀侯が周桓王の后を出す等)を頼みに命脈を保っていたが、齊襄公が九世前の祖の恨みを名分に復讐戦を仕掛け、紀季が酅を齊に献じて降り、紀侯は国を去って滅んだ。
婚姻と紀・莒の関係(隱公・桓公年間)
- (左傳・公羊傳・榖梁傳より)隱公二年、紀の裂繻が魯へ迎女に来た記事を機に、婚礼における使者派遣の礼法が詳しく論じられる。
- (左傳より)桓公五年、齊侯・鄭伯が紀を朝問と称して襲おうとしたが紀に察知され失敗した。
- (左傳・公羊傳より)桓公八年、周の祭公が紀季姜(紀侯の娘)を周の王后に迎える使いとして訪れ、九年に季姜は京師に嫁いだ。
齊の圧迫と紀の分裂(莊公年間)
- (左傳より)莊公元年、齊と魯の間で紀の郱・鄑・郚を遷す(実質的な齊による接収)会盟が行われた。
- (左傳・公羊傳より)莊公三年、紀侯の弟紀季が酅の邑を齊に献じて降り、「紀はここに分裂した」と記される。公羊傳は季を「罪を認めて姑姉妹の祭祀を残そうとした賢者」として名を秘さず称える。
- (左傳・公羊傳より)莊公四年、紀侯は齊との対抗を諦め国を去った(大去其國)。公羊傳はこれを「齊が滅ぼした」と直言せず「襄公の復讐」として婉曲に記す春秋の筆法(賢者のための諱)と説明し、九世の恨みも復讐しうるとする論を展開する。
紀伯姫・叔姫の死
- (公羊傳・榖梁傳より)紀に嫁いでいた魯の伯姫・叔姫について、国が滅んだ後もその葬儀を記したことは、亡国の哀れみを示す春秋の筆法とされる。
編者按
- 紀は小国で齊に近接していたことが不幸の根源であり、齊の紀侵略の野心は僖公の代から続いていたとし、これを単なる「復讐」とする公羊傳の理屈づけを退け、実質は齊の領土的野心であったと指摘する。紀季が酅を献じて祭祀を存続させた行為を評価しつつ、紀侯が国を去った後も名分上「復讐は成らず」であったと結ぶ。