- 履歴: 魯桓公の夫人文姜(斉の女)。実兄の齊襄公と密通し、それが露見して桓公を殺害される原因となった。子の荘公即位後も斉に通い続け、二代にわたり魯に恥辱を与えた。
婚姻と出産(桓公三年・六年)
- (左傳より)公子翬が齊へ赴き文姜を迎え、齊侯自ら国境を越えて送ったことは礼に外れるとされた。
- (左傳より)桓公六年、子同(後の荘公)が生まれ、命名の礼法(信・義・象・仮・類の五類)が申繻によって詳しく説かれた。
齊侯との密通と桓公の死(桓公十八年)
- (左傳より)桓公十八年、桓公は文姜を伴い齊に赴いたが、文姜と齊襄公の密通が露見し、桓公がこれを咎めたところ、齊侯は公子彭生に命じて桓公を車中で殺害させた。魯は齊に抗議し、齊は彭生を処刑して詫びた。
- (管子より)豎曼という人物が、彭生が主命に従っただけで罪はないとしつつ、君主が怒りに任せて事を起こしたことが禍の根本であると論じたという逸話が伝わる。
- (詩・南山、敝笱より)齊人が襄公の獣行を風刺し、魯人が桓公の妻を制御できなかった弱さを風刺した詩が引かれる(詩序)。
莊公の代の文姜(莊公元年~)
- (左傳より)莊公は即位を称せず、母文姜が国外に出たことに由来する。文姜は「姜氏」と呼ばれず、親から絶たれた扱いを受けた。
- (左傳より)その後も文姜はたびたび齊侯と密会を重ね(禚・防・穀などでの会見)、榖梁傳・公羊傳ともに「婦人は境を越えて会うべきでない」としてこれを非礼と断じる。
- (詩・載驅、猗嗟より)齊人が文姜の放埒を風刺し、莊公の威儀を評しつつも母の淫行を制御できなかったことを暗に批判する詩が引かれる。
編者按
- 齊魯の婚姻が始めから礼に外れていたことを起点とし、齊僖公が国家経営に専念せず子女の教育を怠ったことが、文姜による二代にわたる恥辱の根本原因であると指摘する。桓公が簒奪者でありながら親しく齊に婚を求めたこと自体が凶兆であり、莊公が母の淫行を知りながら復讐も改心もできなかったことを厳しく批判し、一つの文姜が二代の恥を招いた禍根の深さを結論づける。