- 履歴: 文王の崩後、子の発(武王)が立ち、太公望・周公旦・召公・畢公らの補佐を得て文王の業を修めた。孟津での会盟、牧野の戦いで紂を破って殷を滅ぼし、比干の墓を封じ箕子を釈放するなど仁政を布き、周王朝を開いたと伝える。
武王の政治問答
- (説苑より)武王が太公望に治国の道(愛民)、賢君の政治、法令をたびたび改める弊害、人の言葉のみに頼って断ずることの危うさ、讒言と誹謗を見分ける道などを問い、太公が答えた一連の問答を集成する。
- (新書より)太公が「天下は一人の天下ではなく天下の天下である」との天下観を説いたとする。
太公の兵法・治国論
- (六韜・三略ほかより)武王が太公に兵道・将の心得・音律による敵情の察知法などを問い、太公が詳細に答えたとする内容を集成する。編者は六韜を偽書としつつも一部を採録し、三略についても「太公の作を黄石公が張良に授けたもの」とする伝承を注記する。
孟津の会盟(観兵)
- (史記より)武王が即位九年、文王の木主を奉じて盟津まで進み、八百の諸侯が期せずして会したが、天命いまだ至らずとして師を返したとする。
西伯戡黎(黎の征伐)
- (書・西伯戡黎より)西伯(武王)が黎を討ったことに祖伊が恐れて紂に急を告げたが、紂は「我が生は命にあり」と聞き入れなかったとする。編者は「戡黎」の主体を文王とする通説を退け、武王の事跡であるとする考証を示す。
紂の悪臣と忠臣の離反
- (書・微子より)微子が父師・少師に対し、殷の乱れと自らの去就について語り合ったとする。
- (史記より)微子が諫めても紂が聞き入れなかったため国を去り、箕子は佯狂して奴となり、比干は強諫して心臓を裂かれて殺されたとする「殷の三仁」の逸話を詳述する。
出師の準備
- (史記より)紂の暴虐がいよいよ甚だしく、比干を殺し箕子を囚え、太師疵・少師彊が楽器を抱いて周に奔ったのを機に、武王が諸侯に告げて戎車三百乗・虎賁三千・甲士四万五千で東征したとする。
泰誓(出師の誓い)
- (書・泰誓より)武王が紂の罪状(婦人の言に惑い、賢者を退け、忠良を殺害する等)を挙げ、天罰を代行する旨を諸侯に誓ったとする。
孟津渡河の異変
- (淮南子・呂氏春秋より)渡河の際に逆波・暴風が起きたが武王が動じなかったとする逸話、殷の使者膠鬲との約束を違えぬよう武王が急行したという信義の逸話を伝える。
牧誓(牧野の誓い)
- (書・牧誓より)武王が牧野で「牝鶏無晨」(雌鶏は朝を告げない=婦人が政を乱す譬え)等の言葉で紂の罪を挙げ、将士に天罰執行を誓ったとする。
牧野の戦いと紂の死
- (史記より)紂軍は数こそ多いが戦意なく、かえって武王軍の先導として倒戈したため紂軍は崩れ、紂は鹿台に登り自ら焼死したとする。武王が紂の首を斬り大白の旗に懸けたとする記述を、周書の類似記事とともに併載する。
入城後の措置
- (書・史記より)武王が箕子を釈放し、比干の墓に印を立て、商容の閭を表彰し、鹿台の財・鉅橋の粟を民に分与したとする。殷の遺老に問うて盤庚の政を復すなど、旧に復す政策を行ったとする。
二虜への問い(殷の妖)
- (呂氏春秋・六韜より)武王が捕虜となった殷の二人に「国に妖はあったか」と問い、天変よりも「君臣・父子・兄弟が言うことを聞かない」ことこそ最大の妖であると答えたという逸話を伝える。
遠国の朝貢(旅獒)
- (書・旅獒より)西方の異民族が犬(獒)を献じたのを機に、召公が「玩物喪志」を戒める言葉を武王に呈したとする。
諸侯・遺臣への処遇
- (史記より)微子を宋に封じて殷の祀を継がせ、箕子を朝鮮に封じ臣としなかったとする。箕子が故殷の廃墟を通った際に「麦秀の詩」を詠んで悲しんだ逸話を伝える。
諸国の建置と分器
- (史記・呂氏春秋より)神農・黄帝・堯・舜・禹の後裔をそれぞれ焦・祝・薊・陳・杞に封じ、功臣・同姓の諸侯を各地に配したとする(詳細は次篇「周建諸侯」参照)。
兵の解散と偃武修文
- (書・呂氏春秋より)武王が戦後、馬を華山の陽に放ち、牛を桃林の野に放って再び用いないことを示し、武器を府庫に収めて長らく用いなかったとする「偃武修文」の姿勢を伝える。
楽の制定(大武)
- (礼記より)孔子が賓牟賈と「大武」の楽の構成について問答し、その舞の各段が牧野の戦いから諸侯の分封、周公・召公の治世に至る過程を象っていることを説いたとする。
詩に見える武王の徳
- (詩・大明・時邁・魚麗ほかより)牧野の戦いと武王の徳を称える詩群を引く。
丹書・銘(武王践阼)
- (大戴礼記より)武王が即位三日目に太公望から「丹書」の教え(敬勝怠者吉、怠勝敬者滅等)を受け、席・机・鑑・盥盤・楹・杖・帯・履・戸・牖・剣・弓・矛など身辺の器物にそれぞれ戒めの銘を刻んだとする逸話を詳述する。
伯夷・叔斉の諫死
- (史記・呂氏春秋・汲冢書より)伯夷・叔斉が武王の東伐を「父死して葬らず、臣をもって君を弑す」として馬前に諫め、聞き入れられず首陽山に隠れて周の粟を食まず餓死したとする逸話と、その真偽をめぐる諸説(史記の年代の矛盾、荘子・呂覧の説話性)を併載する。
編者按
- 「西伯戡黎」「微子」の篇から殷の滅亡の必然性を、「泰誓」「牧誓」から周の興隆の正当性を読み取れるとする。文王・武王が長らく殷に臣従し続けたにもかかわらず、天命・民心がすでに周に帰していた状況を「木の顛れるは本より、牆の踣るるは基より」の譬えで説明し、武王の討伐は殷を覆したのではなく「輔本扶基」(すでに傾いた本・基を輔けた)に過ぎないとする。微子が「周に帰順した」とする一部の説(史記諸篇の間の矛盾)を検討し、微子はあくまで自ら身を処するために身を引いたのであり、後に武庚の乱を経て宋に封じられたことをもって初めて周の臣となったのだと弁じる。殷の三仁(微子・箕子・比干)はいずれも忠君愛国の心において同じであり、その生死去就の違いによって優劣をつけるべきではないと結ぶ。