繹史武丁の中興(武丁中興)

  • 履歴: 小辛の弟武丁が即位し、賢臣傅説を夢の中の姿から探し当てて宰相に登用し、殷を再興した。祖已の諫めで雉の怪異を機に修政し、荆楚を討って威を四方に及ぼし「高宗」と称された。

傅説の登用

  • (史記より)武丁は即位後三年間政事を語らず、冢宰に決定を委ねて国風を観察した。夢に聖人説を見て、その姿を捜させたところ、傅巌で土木作業をしていた胥靡(刑徒)の説を見出し、宰相に登用したとする。

説命(傅説への訓戒と応答)

  • (書・説命より)武丁が説に「若金用汝作礪、若済巨川用汝作舟楫」等の言葉で輔弼を託し、説は「后従諫則聖」と応えたとする。
  • (書・説命より)説が政治の要諦(官は私昵に及ばず能を用いる、事には備えあるべき等)を進言し、武丁は「学半(教えることは学ぶことの半ばである)」の言葉などで学問への姿勢を語り合ったとする。

桑穀の怪異と祖已の諫め

  • (説苑・尚書大伝より)武丁の代にも桑穀が朝廷に生じる怪異があり、祖已の諫めにより武丁が身を修めたところ、三年後に遠方諸国が朝貢したとする(編者は太戊の代との記述の類似・混同に注記)。

雉の怪異(高宗肜日)

  • (書・高宗肜日より)武丁が成湯を祭った翌日、雉が鼎の耳に止まって鳴く怪異があり、祖已が「天は民を監て徳を典とする」と諭し、武丁が政を正したとする。

荆楚征伐

  • (詩・商頌・殷武より)武丁が荆楚を討って服させ、氐羌をも朝貢させたとする詩を引く。

諒陰(喪に服す慣行)

  • (礼記・喪服四制より)武丁が父の喪に三年間言を発しなかったことを「高宗諒陰」として礼記が称賛していることを記す。

崩後の継承と武丁以後の衰退

  • (史記より)武丁の崩後、子祖庚が立ち、祖已が武丁の廟を「高宗」と号したとする。
  • (史記・竹書紀年より)祖庚のあと祖甲、廩辛、庚丁と続き、祖甲は書経無逸篇では「迪哲の王」とされる一方、史記は淫乱と記し、両説の食い違いを注記する。
  • (史記より)武乙が「天神」に見立てた偶人を侮辱する遊びをして雷に打たれて死んだとする逸話、太丁・帝乙へと続く系譜を記す。

編者按

  • 武丁が太子の頃から民間で苦労を積み、即位後も甘盤の補佐のもと三年喪に服して言を発しなかったことを、慎重に賢佐を求める姿勢として評価する。夢に感じて傅説を得たことは至誠が天に通じた結果であるとし、傅説の輔弼によって武丁の徳が成湯に劣らぬものとなり「高宗」と称されたと論じる。詩・易にその功業(鬼方討伐、九三の爻辞等)が記されることを引き、荆楚討伐を成し遂げられたのは武丁の剛毅と傅説の柔にして剛なる補佐が相まった結果であるとする。一方、孝己(武丁の賢子)が後妻の讒言で放逐され死んだ逸話や、高宗肜日の記述が「祖已が武丁のために作った」のか「祖庚のために作った」のか史書間に異同があることを指摘し、判断を保留して両説を併記するにとどめる。