- 履歴: 沃丁以降、太庚・小甲・雍已と続き、殷道はしだいに衰えたが太戊が伊陟を相として徳を修め中興し「中宗」と称された。その後仲丁・外壬・河亶甲・祖乙・祖辛・沃甲・祖丁・南庚・陽甲と続き、たびたび乱と衰退を繰り返した末、盤庚が殷(北蒙)に遷都して再び興隆させたと伝える。
太庚から雍已までの継承
- (史記・竹書紀年より)沃丁の弟太庚、その子小甲、弟雍已と継承し、雍已の代には諸侯の一部が朝せず殷道が衰えたとする。
太戊の中興
- (史記より)太戊が伊陟を相とした際、朝廷に桑と穀の木が一夜で大きく育つ怪異が生じ、太戊が恐れて政治を省みると、木は枯れて去ったとする。
- (帝王世紀より)太戊が先王の政を修め養老の礼を明らかにしたところ、三年で遠方七十六国が重訳をもって朝貢したとする。太戊は「中宗」と称されたとする。
仲丁から河亶甲まで
- (史記・後漢書より)仲丁が囂に遷都し、藍夷の反乱があったとする。外壬・河亶甲と続き、河亶甲の代に殷は再び衰えたとする。
祖乙の再興と以降の混乱
- (史記より)祖乙が立って殷は再興し、巫咸が任じられ邢に遷都したとする。その後祖辛・沃甲・祖丁・南庚・陽甲と兄弟間の継承が続き、陽甲の代には仲丁以来の適庶の争いが九世に及び、諸侯が朝しなくなったとする。
盤庚の遷都
- (史記より)陽甲の弟盤庚が立ち、河北にあった都を南の亳(成湯の故居)に遷し、五たびの遷都に民が怨んだが、盤庚は成湯の法に従うべきことを説いて諭したとする。
- (書・盤庚三篇より)盤庚が民の不満に対し、遷都の必要性、先王の徳への信頼、貨財に惑わされず民生を第一とすべきことを繰り返し説き、最終的に民を安んじて新邑に落ち着かせたとする。
遷都の背景
- (帝王世紀より)耿の地が山川に迫り、代々奢侈が続いていたため、盤庚が湯の旧都殷へ遷したとする鄭玄・王粛の説を併載する。
盤庚崩後
- (史記より)盤庚の崩後、弟小辛が立つと殷は再び衰え、百姓が盤庚を偲んで「盤庚三篇」が作られたとする。
編者按
- 殷代は代々賢君と暗君が交互に現れ、雍已の衰え→太戊の中興(中宗)、河亶甲の衰え→祖乙の中興、陽甲の衰え→盤庚の中興と繰り返されたことを整理する。無逸篇・君奭篇には中宗・高宗・祖甲を挙げるが盤庚には触れられておらず、これは盤庚が短命であったこと、また賢臣の記録が少なかったことによるのではないかと推測する。太戊は桑穀の怪異に驚いて自省し伊陟らの補佐を得たが、盤庚は仲丁以来九世の乱と奢侈の悪習という困難な状況の中、尊大な威を用いず、繰り返し諭す温厚な言葉で民心を得て遷都を成功させたことを特に高く評価し、「賢なるかな」と結ぶ。