繹史陶唐(堯)の紀伝(陶唐紀)

  • 履歴: 陶唐氏、姓は祁、諱は放勲、諡は堯。帝嚳の子と伝えるが、緯書には母慶都が竜との感応で身ごもったとする異伝もある。十五歳で兄摯を輔けて唐の諸侯となり、二十歳で帝位に即く。都は平陽。暦法の制定、九官の設置、四凶の放逐、舜への禅譲などの治績を残し、済陰の穀林に葬られたと伝える。

出生と容貌の伝承

  • (帝王世紀より)母慶都が丹陵で十四月身ごもって堯を生んだとし、眉に八采あるなど瑞相を伝える。

即位と徳による治

  • (書・堯典より)堯は「欽明文思」の徳をもって九族を親しませ、百姓を明らかにし、万邦を協和させたとする。
  • (史記より)堯は仁・知に優れ、驕らず舒せず、九族を睦ませ百姓を明らかにしたと記す。
  • (淮南子より)堯は天下の富貴を貪らず、節倹の行いをもって民を導き、茅葺きの屋根・粗末な衣食に甘んじ、老いては舜に天下を譲ったとする。

暦法の制定

  • (書より)羲和に命じて日月星辰を観測させ、四時・閏月を定め、農事の時を授けたとする。

諫言を求める仕組み

  • (古今注ほかより)誹謗の木(今の華表)や敢諫の鼓を設け、民の諫言を集めたとする。

対外と災異への対処

  • (呂氏春秋より)丹水のほとりで南蛮(有苗氏)を服させたとする。
  • (淮南子より)十日並び出て草木を焼き猛獣が害をなしたため、羿に命じて猛獣を誅し十日のうち九日を射落とさせたとする神話を伝える。

音楽の制作

  • (呂氏春秋より)質に命じて山谷の音を象り「大章」の楽を作らせ、上帝を祭ったとする。

仁政の言葉

  • (新書より)民の飢え・寒さ・罪を自らの責めとする堯の言葉を伝える。
  • (管子より)法禁を明らかにすることを治の要としたとする。

賢者への礼遇

  • (列子より)堯は微服して康衢を巡り、童謡を聞いて天下の治まりを知り、のち舜に禅ったとする。
  • (荘子より)華の封人が堯に寿・富・多男子を祝ったが、堯はいずれも辞したとする逸話を伝える。

許由・巣父の故事

  • (荘子・呂氏春秋ほかより)堯が許由に天下を譲ろうとしたが、許由は名を求めぬとして固辞し箕山に隠れたとする。
  • (高士伝より)許由の伝と、九州の長に召されたことを恥じて潁水で耳を洗った話、友の巣父がそれを聞いて牛に水を飲ませる場所を変えた話を伝える。

瑞祥

  • (述異記・尚書中候・説文・田俅子・博物志ほかより)鳳凰・景星・甘露・蓂莢・指佞草など多くの瑞祥が堯の代に現れたとする緯書・地理書の記述を集める。

官制と分掌

  • (説苑・淮南子より)舜を司徒、契を司馬、禹を司空、后稷を田疇、夔を楽正、垂を工師、伯夷を秩宗、皋陶を大理とし、各々その職に応じて才を用いたとする。

賢者への礼

  • (呂氏春秋より)堯は布衣の善綣に対しても北面して道を問うたとする。

崩御と墓

  • (帝王世紀より)甲申の年に生まれ、甲辰に帝位に即き、九十八年在位して百十八歳で崩じ、済陰の城陽西北の穀林に葬られたとする。
  • (墨子より)北の八狄を教化する道中で崩じ、鞏山の陰に薄葬されたと伝える。
  • (呂氏春秋・山海経より)穀林に葬り木を植えたとする説と、狄山や岳山に葬られたとする異説を併記する。

編者按

  • 堯の暦法制定は民に時を授ける政の始まりであり、以後歴代がこれを慎んで受け継いだことを述べる。四凶の放逐や賢者の登用は舜に委ねられたが、その功はなお堯の徳・堯の功に帰すと論じる。孔子が『書』を堯典から書き起こし、堯の功徳を「惟天為大惟堯則之」と賛えた理由もここにあるとする。許由への譲位を天下への無関心と見る説を退け、司馬遷の言(岳牧の薦挙・数十年の試用を経て禅譲したこと)を引いて、安易な形式的な譲位ではなかったことを強調する。