劉武周の自立と挙兵準備
- 二月、馬邑の劉武周が太守王仁恭を殺して自ら天子を称し、国号を「定楊」とした。李淵はこれを機に挙兵を志すが、当初は先んじて動くことを避け、王威・高君雅らに危機感を煽りつつも表向きは平静を装った。
- 三月、劉武周が楼煩郡・汾源宮を落とすと、李淵は軍備・城の守り・兵糧の三点を整えるべきだとして、太原の官民から募兵を行い、興国寺に兵を集めた。裏で皇太子らを召還する使者も送った。
高君雅・王威の粛清
- 同月、朔方の梁師都も自立し天子を称した。高君雅は突厥防戦の失敗を隠すため、李淵の人心掌握を疑い王威と共に隙をうかがっていたが、内通者の密告により、李淵はその動きを事前に把握していた。
- 五月、李淵は高君雅・王威が北方の異民族と内通し突厥を招き入れたとして両名を捕らえた。折しも突厥数万騎が太原に侵入したが、李淵は城門を開いたまま守りを固めず、伏兵の失敗(王康達らの部隊が壊滅)を経つつも、あえて動じない態度を示し、最終的に突厥は自ら退去した。
突厥・始畢可汗との和親交渉
- 李淵は突厥に和親を持ちかける書を送り、可汗との対等な関係を演出するため、あえて臣下としての形式的な卑称を避け「啓」の字を用いた書簡形式にこだわった。始畢可汗は喜び、馬千匹を贈り、李淵の挙兵を後押しする姿勢を示した。ただし煬帝を迎え入れて和睦させるという李淵側の当初の提案には難色を示し、李淵自身が皇帝となることを条件に協力すると返答してきた。
- 李淵は臣としての節義を保つ姿勢を崩さず、直ちに皇帝を称することは拒んだが、義兵を挙げる決意を固めていった。
太子・秦王の合流と挙兵の体制作り
- 六月、皇太子と斉王(元吉)が河東から太原に至り、裴寂らは殷の伊尹や漢の霍光の故事に倣い、煬帝を廃して代王(煬帝の孫)を擁立する案を進言、李淵はこれを已むを得ぬこととして受け入れた。突厥からは柱国の康鞘利らが馬千匹を伴って来援を告げた。
- 挙兵にあたり白旗を掲げる案が出たが、李淵は殷周革命の故事を踏まえ赤白を混ぜた旗を用いることとした。「桃李子」の童謡なども吉兆として語られ、義兵は日に日に増え、二旬で数万に達した。李淵は将軍の位や三軍の編成について、裴寂らの進言に対し慎重な姿勢を保ちつつ、左右三軍の体制を整えた。
西河攻略
- 太原遼山県令が命に従わず煬帝に密告したため、李淵は西河郡の攻略を決意し、大郎(建成)・二郎(世民)に兵を委ねた。両名は民心を得るため略奪を厳に戒め、公正な軍紀を保ちながら進軍し、わずか九日で西河を平定、抵抗した郡丞高徳儒のみを処断し他は一切殺傷しなかった。
- この成功を受け、李淵は世子(建成)を隴西公・左領軍大都督、次男(世民)を敦煌公・右領軍大都督とし、裴寂・劉文静を大将軍府の長史・司馬に任じるなど、本格的な幕僚体制を整えた。
瑞祥と突厥使節の応対
- 白雀の出現や紫雲など瑞祥が相次ぐ中、李淵はこれらを表立って受け入れることを控えた。突厥の康鞘利らを丁重に迎え、道教(老君)を敬う突厥使節の様子や、李淵の礼を尽くした応対によって蕃族の信頼を得た経緯が記される。贈られた馬は必要以上を求めず、義士の私財を費やさないよう配慮した。
- 高陽郡の賊帥郄士陵が投降し鎮東将軍に任じられるなど、各地からの帰順が続いた。康鞘利らが帰還する際、李淵は劉文静に対し、突厥兵は少数に留め、その威勢のみを利用する方針を密かに指示した。