大唐創業起居注唐義寧 恭帝(代王) 元年 617年

丞相就任と唐王への進封

  • 十一月、少帝(代王、恭帝)は李淵を丞相とし唐王に進封、諸王公の上位に置いた。国政・軍事・祭祀を除く全ての大権を丞相府に委ねる詔が下るが、李淵は当初固辞し、群臣の強い要請を受けてようやく受諾した。榆林・霊武など諸郡が相次いで帰順し、丞相府の属官も整備された。世子(建成)は唐王世子、次男(世民)は秦国公、四男(元吉)は斉国公とされ、太原留守は鎮北府と改称され山東方面を統括した。

群雄の動静と各地の平定

  • 十二月、隴西の薛挙が唐弼を破って自ら天子を称するなど、各地でなお群雄が割拠していた。竇璡・蕭瑀ら隋の地方長官が相次いで帰順し、要職に任じられた。屈突通も捕らえられたが、李淵はその忠節を評価してこれを厚遇し登用した。

蜀・関東方面への勢力拡大

  • 義寧二年(618年)正月、蜀漢・氐羌の諸豪族が続々と帰順し、裴寂・劉文静ら功臣が国公に封じられた。世子を左元帥、秦王を右元帥として十余万の軍を東方(滻水方面)に配し、洛陽の李密への備えとしつつ、農繁期を考慮し無理な進撃は控える方針が示された。
  • 二月、涿郡の羅芸らが帰順する一方、竇建德が夏王を称し河北を席巻するなど、なお各地で群雄が乱立していた。南方では蕭銑が江陵で挙兵した。李淵は南陽・荊襄方面へも使者を送り帰順を促した。三月、東都(洛陽)への進撃も試みられたが、農繁期を理由に一時撤退し、守備のみを固めた。

相国への昇進と九錫の授与

  • 少帝はさらに李淵を相国に進め、九錫(天子に准ずる特別な礼遇の品)を授けようとした。冊文では、李淵が突厥の包囲を解いた功、歴山飛(群盗)平定の功、辺境防衛の功、王威らの謀反鎮圧の功、関中平定・薛挙討伐・蜀地平定など数々の功績が列挙され、これに応じて唐国への封土の加増、相国の印綬、九錫の品々(大輅・戎輅、袞冕の服、軒懸の楽、朱戸、納陛、武賁の士、鈇鉞・弓矢、秬鬯など)が授けられることとなった。
  • 李淵はこれに対し、自らは少帝を輔けるつもりであり、幼帝が周囲に擁立されて過分な礼を授けようとしていることに強い違和感を示す。魏晋以降の禅譲の故事(曹操・司馬炎ら)を引き合いに出し、それらが本来の徳を伴わない権力簒奪の言い訳に過ぎなかったと厳しく批判し、自らはそのような前例に倣うことを恥じるとして固辞した。周囲の重ねての説得により、最終的に丞相府の呼称のみを改め、九錫や特別な礼遇については有司に委ねる形で決着した。

煬帝の横死と宇文化及の反乱

  • 三月、江都で宇文化及らが謀反を起こし、驍果軍を率いて宮城を囲み煬帝を弑逆した。李淵は少帝とともに哀悼の意を示しつつ、煬帝が早く退位していれば国運も違ったのではという複雑な心情を漏らした。宇文化及は皇帝を僭称して関中を目指すが、李密が成皋を扼して阻み、李淵も軍を派して招撫や討伐にあたらせた。最終的に化及は竇建德に討たれ、煬帝の蕭皇后らも竇建德の手に落ちた。

少帝の禅譲と即位への経緯

  • 少帝は煬帝の死を知り、自ら退位して李淵に位を譲る詔を出す。詔では、李淵の功績が天命によるものであり、自らは幼少で任に堪えないとして、古の虞舜・夏禹の禅譲に倣いたい意向が示された。
  • 裴寂ら群臣二千人余りは、この詔を上奏せず、逆に李淵に即位を勧める上表を行った。上表では李淵の功徳や瑞祥(白雀・讖謡など)を称え、天命に応じて帝位に就くよう強く求めた。李淵は当初これを退けたが、裴寂らは桀紂の子と湯武の関係を引き合いに出し、また「太原の慧化尼」「蜀郡の衛元嵩」らの詩讖・童謡(李氏の興隆や太原での挙兵を予言する内容とされるもの)を根拠に重ねて説得した。
  • 李淵は漢の高祖が諸侯に推されて即位した故事を引き、最終的に群臣の推戴を受け入れることとした。

即位と改元

  • 武徳元年(618年)五月甲子、李淵は太極殿にて皇帝に即位した。長安城南に壇を設けて天を祀り、告天の冊文では、隋室の衰亡と自らが已むを得ず義兵を挙げた経緯、少帝の禅譲の意志、そして天命・人心に応えて即位するに至った経緯が述べられた。即位に際し大赦が行われ、年号は義寧から武徳と改められた。
  • なお吉日を選ぶにあたり、子卯の日を避ける慣例があったが、李淵は殷周革命の故事や五行における甲子・木気の吉祥を理由に、挙兵以来一貫して甲子の日を用いてきたことを述べ、この日を選んだと記される。