大唐創業起居注隋大業 煬帝 十二年 616年

李淵、太原道安撫大使に任じられる

  • 李淵(帝)は衛尉卿から右驍衛将軍に転じ、太原道安撫大使を命じられる。太原周辺の官吏の任免と兵馬の徴発・盗賊討伐を任され、これを天の授けと喜び、寛仁な統治で人心を得た。
  • 煬帝が楼煩から鴈門へ出た際、突厥の始畢可汗に包囲され窮地に陥ったが、太原の兵馬が到着したことで囲みが解けた。その後、李淵は馬邑郡守の王仁恭とともに北辺の防備を命じられる。李淵は突厥は歴代の患であり、今回の遠征は自らへの天与の機会だと私かに語った。

馬邑での対突厥戦術

  • 馬邑での兵力は五千余に過ぎず、王仁恭は寡兵を恐れたが、李淵は突厥の騎射中心の戦法を分析し、こちらも同様の身なりと機動戦術を採用することで突厥に隙を与えず、機を見て決戦に持ち込む策を説いた。
  • 精鋭二千を選抜して突厥風の生活・移動を模倣させ、威武を示しつつ機を待ち、ついに突厥軍を大破して特勤の乗馬を得るなど大勝し、以後突厥は李淵の用兵を深く畏れるようになった。

歴山飛討伐

  • 太原南方に拠った賊帥「歴山飛」(王須抜の別党、数万の勢力)が上党・太原を脅かし、官軍の将を次々に破っていた。李淵は寡兵(五、六千)で二万余の賊軍に対峙し、囮の本陣と精鋭の伏兵とに分ける計略で敵将を誘い出し、大勝して数万の老幼男女を投降させた。

突厥の再侵と煬帝の疑心

  • 李淵が太原に戻ると、突厥は再び馬邑を侵し、副留守の高君雅と王仁恭の防戦は指示を守らず敗北した。煬帝はこれに怒り、使者を送って李淵を捕縛し王仁恭を斬ろうとしたが、後に李淵は釈放され、仁恭も許された。この危機の中、李淵は次男(秦王・李世民)に、家門の運命を語り、挙兵の覚悟を示唆したが、なお天命を待つ姿勢を保った。

江都からの使者と挙兵の決意

  • 煬帝が江都に逃れて以降、各地の道が賊に塞がれる中、ただ一人の使者が滞りなく太原に達したことに李淵は天の意志を感じ、挙兵の決意を固めていく。皇太子(建成)・秦王(世民)にそれぞれ河東・晋陽で人材を集めさせ、身分を問わず広く人心を得た。

天変地異と符讖

  • 大業十三年(617年)正月、晋陽宮西北に夜、地から天に届く光が現れ、龍山の童子寺付近に紫気が立つなど、瑞祥とされる現象が相次いだ。以前より「西北に天子の気が太原に連なる」との望気の説があり、煬帝もこれを警戒して楼煩に宮を築いていた。