大唐西域記摩揭陁國(下)

  • 要旨: 摩揭陁国(下)は王舎城・鷲峰・那爛陀僧伽藍など、釈迦の教化と仏教教団の発祥にまつわる中心地を扱い、第一結集(王舎城結集)や那爛陀僧伽藍の学問的権威、舎利弗・目連ら高弟の生地の伝承を記す。

香象が母を養った本生譚

  • 菩提樹の東、林中の池は、釈迦が過去世に香象の子として、盲目の母を孝養したという逸話の地とし、母を捕らえようとした猟師の腕が落ちるという神罰や、母を思って絶食する象を憐れんだ王が解放したという顛末を記す。

外道が悪しき願を発した場所

  • 大河を渡った先の石柱は、神通力を得ていた外道の仙人郁頭藍子が、王女への邪な思いから神通を失い、群がる鳥や魚の声に瞑想を乱されて怒り、「猛獣となって生き物を食い尽くしたい」という悪しき願を立てた場所とし、後にその願が実現して悪道に堕ちたことを釈迦が予言したと記す。

雞足山と大迦葉の入滅

  • 東方の雞足山(尊足山)は、釈迦から法蔵の護持と弥勒への袈裟の伝達を託された大迦葉が、入滅の際に山を割って中に入り、自らの遺体を三つの峰で覆わせたという伝説の地とし、未来に弥勒菩薩が世に出た時にこの山が開いて大迦葉が姿を現すとされると記す。

仏陀伐那山と杖林

  • 仏陀伐那山は釈迦が滞在したとされる岩山で、五百の羅漢が姿を隠しているという伝承があるとする。
  • その東の杖林は、釈迦の身の丈を疑った婆羅門が竹の杖で測ろうとしても測りきれず、投げ捨てた杖が根付いたという由来を持ち、無憂王建立の仏塔があるとする。
  • 杖林には、剎帝利種の在家信者・勝軍(阇耶犀那)が百歳になっても仏典を学び、三十年で七億の小塔(法舎利塔)を作り続けたという逸話も伝わるとする。
  • 周辺には釈迦が沐浴したという温泉、頻毘娑羅王が石段を築いて説法を聴きに来たという山、仙人の遺跡、阿素洛(アスラ)の宮とされる岩窟の伝説(術士に案内された者たちが金銀の都を見た後、気づけば稲田に座っていたという話)などが伝わるとする。

上茅宮城(旧王舎城)

  • 上茅宮城は摩掲陀国の古都で、火災を防ぐための厳しい法(放火した者を寒林に追放する)を頻毘娑羅王が定めた後、自らの宮殿が火事になった際に自ら都を移したという「王舎城」の名の由来を記す。
  • 城内には、提婆達多が未生怨王と結託して放った暴象を釈迦が指先から獅子を出して馴伏させた場所、舎利弗が馬勝比丘の説法を聞いて悟りを得た場所、外道の勝密(室利毱多)が火の穴と毒入りの食事で釈迦を害そうとして逆に感化された場所、名医・耆婆(時縛迦)が釈迦のために建てた説法堂の跡がそれぞれ伝わるとする。

鷲峰

  • 城東北の鷲峰(霊鷲山)は釈迦が約五十年にわたり多く滞在し法を説いた山とし、頻毘娑羅王が石段を築いて登拝したと記す。
  • 山頂の精舎は釈迦が説法した場所、提婆達多が釈迦めがけて石を投げた場所、『法華経』を説いた場所、瞑想した場所、阿難が悪魔に脅かされた際に釈迦が壁を通して手を差し伸べ慰めた場所などが伝わるとする。

毘布羅山

  • 城北門西の毘布羅山にはかつて五百の温泉があったと伝え、雪山の無熱悩池に発する清らかな湯であるとし、多くの人が沐浴に訪れるとする。
  • 山中の卑鉢羅石室は釈迦が瞑想した場所で、後に龍や獅子の幻影に悩まされながらも決意を貫いた比丘が、洞窟の主(アスラの娘)と対話し、互いに配慮し合うようになったという逸話を記す。
  • ほかにも、修行が実らず自ら命を絶ったところ阿羅漢果を得たという比丘の伝説や、釈迦の招きに応じて崖から身を投げたところ地に達する前に悟りを得たという比丘の伝説が伝わるとする。

迦蘭陀竹園と第一結集

  • 城北門近くの迦蘭陀竹園は、長者迦蘭陀が元は外道に施した竹林を、釈迦に帰依して献上し直した場所とする。
  • 竹園東には未生怨王建立の仏舎利塔と阿難の半身舎利を納めた塔があり、後者は阿難が摩掲陀国と吠舎厘国の争いを避けて空中で身を分けて入滅した経緯を記す。
  • 竹林西南の大石室は、釈迦入滅後に大迦葉が九百九十九人の阿羅漢を率いて行った第一結集(三蔵編纂)の場所とし、大迦葉が阿難を当初は未熟であるとして結集から除外したが、阿難がその夜のうちに阿羅漢果を得て加わり、経・律・論の三蔵をそれぞれ暗誦して編纂したという経緯を詳しく記す。
  • さらに西の仏塔は、結集から漏れた数百千人の学僧たちが独自に三蔵に雑集蔵・禁呪蔵を加えた五蔵を編纂した場所とし、これを「大衆部」の結集と呼ぶとする。

王舎城

  • 王舎城は頻毘娑羅王が上茅宮城から遷都した新城とし、後に無憂王が婆羅門に施したため、当時は千戸に満たない婆羅門の住居地になっていたとする。
  • 城内には釈迦が説法した伽藍跡や、長者殊底色迦の生地、釈迦が羅怙羅を出家させた場所などが伝わるとする。

那爛陀僧伽藍

  • 城北の那爛陀僧伽藍は、釈迦が過去世に「施無厭」(施しに飽きぬ者)と呼ばれた王としてこの地に都を置いたという伝承に由来する名を持つとする。
  • 仏滅後、この地の歴代の王(帝日王、覚護王、如来王、幼日王ら)が相次いで伽藍を増築し、五印度随一の仏教学府として発展したという経緯を記す。
  • 帝日王が伽藍を建立した際、龍を傷つけたことで学僧が血を吐きやすくなるという占いの言葉があったと記す。
  • 一僧が神通力で遠方から一瞬で法会に参じたことに驚いた王が出家した逸話や、その王が出家後も序列に悩んだことから受戒前の者を年齢順に扱う独自の慣習が生まれたという由来を記す。
  • 僧徒数千人が学び、厳格な戒律のもと、他国からの訪問者は難解な問答(門番の質問)を突破しなければ入門できないほどの学問的権威を誇ったとし、護法・護月・徳慧・堅慧・光友・勝友・智月・戒賢ら著名な学僧を輩出したと記す。
  • 境内には釈迦の髪・爪を納めた仏塔、観自在菩薩像、輪王の位を求めて悟りを逃した比丘の逸話にまつわる塔、戒日王が建立中の未完成の鍮石精舎、満冑王建立の高さ八十尺の銅仏立像、多羅菩薩像などが多数伝わるとする。

拘理迦邑(目連の生地)

  • 伽藍西南の拘理迦邑は、目連(没特伽羅子)尊者の生地であり、入滅の地でもあるとする。
  • 目連は舎利弗と若くして親友であり、共に外道の師のもとで修行した後、舎利弗が馬勝比丘の説法を伝えて悟りを開かせ、共に釈迦の弟子となったという経緯を記す。

頻毘娑羅王が仏を出迎えた地

  • 拘理迦邑の東の仏塔は、釈迦が悟りを開いて後、頻毘娑羅王の招きで王舎城に入った際、帝釈天が先導し、王をはじめ多数の人々が出迎えたという場面の地とする。

迦羅臂拏迦邑(舎利弗の生地)

  • 東南の迦羅臂拏迦邑は舎利弗尊者の生地であり、入滅の地でもあるとする。
  • 舎利弗は生誕にまつわる予言(母の夢)を持ち、目連と共に外道のもとで学んだ後、馬勝比丘の一言で悟りを開いて釈迦の弟子となり「智慧第一」と称されたとし、釈迦の入滅を見るに忍びず自ら先に入滅を願い出て、生地に戻って説法の後に入滅したという経緯を記す。

帝釈窟と雁塔・鴿伽藍

  • 東方の因陀羅勢羅窶訶山(帝釈窟)は、帝釈天が四十二の疑問を石に描いて釈迦に問うたという伝説の石室があるとする。
  • 東峰の伽藍前の雁塔は、食に窮した小乗の僧団に対し、一羽の雁が自ら身を投げて供養したことに感化され、僧団が大乗の教えに転じたという逸話の地とする。
  • さらに東北の迦布徳迦(鴿)伽藍は、猟師が獲物を得られず困窮していた際、釈迦が自ら鴿(鳩)に化身して身を捧げ、これに感化された猟師が出家して悟りを得たという逸話の地とする。

孤山の観自在菩薩像

  • 迦布徳迦伽藍南の孤山には小さいながら霊験あらたかな観自在菩薩像があり、断食して祈願する者にしばしば姿を現すとし、僧伽羅国(スリランカ)の王が鏡に映らぬ自分の姿の代わりにこの菩薩像を見たことを機に模した像を作らせたという由来を記す。

その他の仏説法遺跡

  • 孤山東南の伽藍や、その先の大聚落、さらに東の落般膩羅聚落には、釈迦がそれぞれ七日間・一夜・三か月間説法したと伝える無憂王建立の仏塔などがあり、周辺には四季を通じて花開く蓮池もあると記す。