大唐西域記吠舍厘國

  • 要旨: 吠舍厘国は維摩詰(無垢称)にまつわる旧跡や、釈迦が涅槃を予告した地、仏滅後の第二結集(七百賢聖結集)の地として知られる国と記す。

地理と現状

  • 周囲五千余里、土地は肥沃で庵没羅果などの果樹が豊かとする。
  • 気候は穏やかで風俗は素朴、正邪双方の信仰を持つとする。
  • 伽藍は数百あったが多くが荒廃し残るのはわずか、天祠数十か所に裸形の外道が多いとする。
  • 城自体も甚だしく荒廃し、故城跡は周囲六、七十里、宮城は周囲四、五里で居住者は少ないとする。

維摩経の説かれた場所

  • 宮城西北の伽藍の傍らの仏塔は、釈迦が『維摩詰経』を説き、長者の子・宝積が宝の傘蓋を献上した場所とし、東の仏塔は舎利弗らが阿羅漢果を得た場所とする。

仏舎利塔とその他の遺跡

  • 東南の仏塔は吠舎厘王が建立したもので、かつて仏舎利一斛が納められていたが無憂王が九斗を取り出し一斗のみが残り、後の王が開こうとした際に地震が起きて開封を諦めたという伝承を記す。
  • その西北の無憂王建立の仏塔の傍らには、猿たちが釈迦のために掘ったという池や、釈迦に蜂蜜を捧げた猿たちの伝説の跡があるとする。

維摩詰・宝積の旧宅

  • 伽藍東北の仏塔は維摩詰(無垢称)の旧宅跡とし、病と称して説法したという伝説の場所や、長者の子宝積の旧宅、庵没羅女の旧宅(釈迦の姨母ら比丘尼が涅槃に入った場所)が伝わるとする。

庵没羅園と涅槃の予告

  • 伽藍北の仏塔は、釈迦が拘屍那国に向かう際にこの地で立ち止まった場所とし、その西北は釈迦が最後に吠舎厘城を望んだ場所、南は庵没羅女が釈迦に園を寄進した場所とする。
  • その傍らの仏塔は、釈迦が悪魔の誘惑に応じて自らの涅槃の時期(三か月後)を告げた場所とし、阿難が見た不吉な夢(大木が突然の風で倒れる夢)にまつわる逸話を記す。

千人の子の本生譚

  • 近くの仏塔は、鹿の姿の女性から生まれた蓮華の千の花弁それぞれから生まれた千人の子が、成長して各地を征服する軍を率いてこの国に迫った際、実母が城壁から乳を千の筋に迸らせて我が子であることを示し、争いを収めたという伝説の地とし、この千人の子は賢劫の千仏の前世であると釈迦が語ったと記す。

重閣講堂ほかの聖跡

  • 近くの仏塔跡は釈迦が『普門陀羅尼経』などを説いた重閣講堂の跡とし、傍らに阿難の半身舎利を納めた塔、千人の独覚が涅槃に入ったとされる数百の仏塔があるとする。

栗呫婆子との別れ

  • 大城西北の大仏塔は、釈迦が涅槃に向かう際、後を追ってきた栗呫婆(リッチャヴィ)族の人々を、神通力で大河を化現させて引き止め、鉢を形見に残して別れたという場所とする。

大天王の本生譚

  • 西北の故城の仏塔は、釈迦が過去世にこの城で転輪王・摩訶提婆(大天)として世界を治めながらも、無常の理を悟って王位を捨て出家したという逸話の地とする。

七百賢聖の結集

  • 城東南の大仏塔は、仏滅後百十年に行われた第二結集(七百賢聖結集)の地とし、吠舎厘城の比丘たちが戒律を誤って解釈していたことを正すため、各地の長老(耶舎陀・三菩伽・厘波多・沙羅・富闍蘇弥羅ら阿難の弟子)が集まり、戒律の逸脱(十事)を正したという経緯を記す。

濕吠多補羅伽藍

  • 結集の地の南の濕吠多補羅僧伽藍は荘厳な大乗の寺院で、傍らに過去四仏の遺跡と、釈迦が摩掲陀国と吠舎厘城の間を行き来する途中に休んだという無憂王建立の仏塔があるとする。

阿難の分身入滅の伝説

  • さらに南、殑伽河の両岸に一つずつある仏塔は、阿難尊者が入滅した場所とする。
  • 阿難が老いてなお正法を伝えていたが、若い沙弥に「もう年老いて誤っている」と侮られたことを機に自らの死期を悟り、摩掲陀国と吠舎厘国の両王がそれぞれ阿難を迎えようと軍を出して対峙する事態となったが、阿難は争いを避けるため空中で身を焼いて入滅し、遺骨が両岸に分かれて落ち、両国がそれぞれ供養したという逸話を記す。