大宋中興通俗演義第四十三回 劉豫、兵を興し合肥を侵す (劉豫興兵寇合肥)
岳飛の辞退表
- 紹興五年十二月、岳飛は検校少保武昌郡開国公に昇進し衣服・金帯・馬などを賜ったが、上表して固辞した。「爵禄は軽々しく与えるべきでなく、功なくして受けるのは謗りを招く」と述べ、恩命の撤回を願った。
- 続いて衣帯・鞍馬の下賜も辞退する表を上げたが、朝廷はいずれも許さなかった。
母の死と喪に服す岳飛
- 岳飛は鄂州で軍務に励む一方、母の姚氏(魏国夫人)が重病となり、看病のため暇乞いの表を上げた。母は七十歳、足腰の痛みが激しく看護が必要だという内容。
- 母は間もなく病死。岳飛は深く悲しみ、朝廷の詔を待たず霊柩を車に載せ、自らは徒歩・裸足で江州廬山まで送り、途中泥濘や炎暑をものともせず、代わりを申し出る者にも「母を背負うのは自分でなければ」と断った。埋葬後は墓の傍らに草廬を建て、子とともに服喪した。
- 朝廷は弔問の使者を送り、銀・絹・布・米を特別に下賜しようとしたが、岳飛は「自分の俸禄で十分」として辞退する表を重ねて上げ、ついに許された。
劉豫の南侵計画と朝廷の対応
- 大斉の劉豫は岳飛が喪に服している隙をついて南侵を企てた。朝廷では遷都の議論が起こり、張濬は建康を、趙鼎は平江を推し、高宗は平江への巡幸を決定した。張俊に軍を整えさせ、秦檜を留守とした。
- 高宗は九月に平江府へ到着。劉豫はこれを知り金に援軍を求めたが、金の熙宗(黏没喝・斡本・蒲盧虎らが実権を握る)は「劉豫が利を得れば金には益がなく、負ければ累が及ぶ」として拒否した。
劉豫の三路南侵
- 劉豫は子の劉麟と謀り、三十万(号して七十万)の兵を三路に分けて南侵させた。劉麟は中路(壽春から廬州・合肥)、姪の劉猊は東路(紫荊山から渦口・定遠)、孔彦舟は西路(光州から六安)を担当した。
- 金は四太子兀朮に五万を率いさせ黎陽に駐屯させ様子を見た。宋側は張俊が盱眙、楊沂中が泗州、韓世忠が楚州、岳飛が鄂州、劉光世が廬州に布陣していたが、沿江には兵が薄かった。
朝廷の対応と岳飛起用論
- 趙鼎は張濬に急ぎ張俊・楊沂中を合肥防衛に合流させるよう進言。楊沂中・張宗顔は精兵を率い出撃し、楊沂中は濠州で張俊と合流を図った。
- 戦況が逼迫すると、張俊・劉光世は岳飛の起用を朝廷に上表。高宗はこれを容れ岳飛の喪中起用を決めたが、張濬は「淮南を失えば長江の防衛線が崩れる、退けば全てを失う」と強く諫め、合兵しての迎撃を主張。高宗は張濬に全権を委ね、逃げる将は斬るとの厳命を出した。
- 楊沂中は濠州へ進んだが、劉光世は既に廬州を放棄し彩石へ退こうとしており、淮西は動揺した。張濬は呂祉を派遣し「渡江する者は斬る」と厳命し、劉光世は廬江に留まって張濬・楊沂中軍と連携した。
評語
なし