大宋中興通俗演義第四十四回 楊沂中、藕塘で大捷を得る (楊沂中藕塘大捷)

劉猊軍と楊沂中の対峙

  • 東路軍を率いる劉猊十万は韓世忠の重兵を避け、定遠へ迂回しようとした。楊沂中は五千の兵で趙家坊にて劉猊の先鋒と対戦。楊沂中と劉猊は一騎打ちで二十余合戦い、勝敗つかず、双方援軍が加わって膠着状態が二十日余り続いた。
  • 兵糧の続かない劉猊は夜陰に紛れ合肥の劉麟軍と合流すべく撤退を決めた。

藕塘の戦い

  • 楊沂中はこれを見抜き、吳錫に藕塘への伏兵を命じ、自らも夜襲の構えで追撃した。劉猊軍は藕塘で吳錫の偽装退却に誘われて深追いし、伏兵の弓弩で杜習を討たれ、楊沂中本隊の奇襲も受けて大混乱。
  • 劉猊は張宗顔の別働隊にも阻まれ、姚琮の殿軍も楊沂中に討たれた。劉猊軍は大敗し、一万人が投降。劉猊はわずかな身で汴京へ逃げ帰った。楊沂中はわずか五千の兵で十万の敵を破る大功を挙げた。

(詩:藕塘の勝報を讃え、なお中原回復を待望む民の心を詠む)

劉麟軍の敗走と岳飛起用

  • 劉麟は淮西から浮橋を渡り濠州・合肥へ迫った。張俊・楊沂中はこれを迎え撃つ構えを取ったが、高宗は劉麟・孔彦舟の圧力を憂慮し、趙鼎の進言により岳飛の起復・東下を正式に決定。詔で「忠義のため喪を離れて国事に当たれ」と促した。
  • 岳飛は母の墓前で詔を拝受し、なお喪に服させてほしいと表を上げたが、朝廷は許さなかった。

岳飛の出征と目の病

  • 岳飛は母の喪を切り上げ鄂州に戻り淮西へ進発した。長年の夏場の行軍による瘴気と、母の死の悲しみで泣きすぎたことにより目の病が悪化していたため、朝廷は医官を派遣して治療させ、慰労の詔を下した。
  • 出征に際し、統制の王俊(あだ名・王雕児)が楊么討伐の際に仮病を使い出陣しなかったため恩賞から外され、不満を漏らして張憲に叱責されていた一件が報告された。岳飛は「軍法で対処せよ」と述べた。犒賞の宴で王俊だけが同席を許されず、深く恨みを抱いた。

評語

なし