大宋中興通俗演義第四十二回 牛皋、洞庭湖で大いに戦う (牛臯大戰洞庭湖)
楊欽の偽装投降と高老虎討伐
- 湖中に戻った楊欽は高老虎に投降を装い、「岳飛に杖罰された腹いせに監視者を殺して逃げてきた、共に官軍と戦おう」と偽った。高老虎は喜び船を並べて共に泊まり、二大王(楊么方の頭目)に急報を送った。
- 夜半、官軍船が三方から奇襲。楊欽は油断していた高老虎を自ら捕縛し、官軍を招き入れて賊を潰滅させた。楊欽は高老虎を鼎州の岳飛のもとへ護送し、岳飛は昇進と褒賞を与えたうえで高老虎を斬首・梟首し、見せしめとした。
楊么軍の脅威と岳飛の対策
- 岳飛は斥候から楊么の巨大戦船(「望三州」「五樓」「九樓」など、水輪を用いて高速で動き、撞竿を備え、高所から矢石を浴びせる構造)の脅威を聞き、これが王燮軍が二年攻めても勝てなかった理由だと理解した。
- 岳飛は湖口の高台から敵船を観察し、対策を練った。君山の木で牛皮を張った大筏を多数作らせて湖中に伏せ、牛臯に命じて布袋の土砂で港・水路を塞がせ、腐木や枯草を上流から流し、浅瀬で挑発する健卒を配した。
楊么の敗死
- 楊么軍を挑発すると、怒った楊么は船を出して追撃し、浅瀬で腐木・枯草に水輪を絡め取られて船団が動けなくなった。官軍は筏で敵船に突撃し大破させ、牛臯・黄佐・楊欽が敵船に乗り込み殺戮した。
- 楊么は逃げ場を失い、鍾儀を湖に突き落としたのち自ら飛び込んだが、筏上にいた牛臯に生け捕られた。楊么は斬首され、首級は張濬のもとへ送られた。二万余人が投降した。
- 賊将陳滔が鍾太子の船を奪い財宝とともに投降を申し出た際、岳飛は密命を与えて送り出し、夏誠らの立てこもる本営に内応させて開門させ、楊欽・黄佐らも突入。岳飛の本隊も到着し、夏誠・黄彪らを捕らえて楊么勢力を完全に平定した。
降兵の処遇と岳飛の見識
- 牛臯は残党の徹底殲滅を主張したが、岳飛は「彼らはもとは鍾相の妖術に惑わされた農民に過ぎず、鍾相の死後も程吏部の粛清を恐れて潜伏していただけ」として寛大な処置を主張し、希望者は軍に、老弱は帰農させ、財物は将士に分配、賊寨・戦船を焼き払い湖・襄の賊を平定した。
- 楊么がかつて「我を犯せる者は空から来る他ない」と豪語していた話が、結局は的中したと人々は語った。
戦後の恩賞と各将の配置
- 岳飛は紹興五年六月末に張濬へ捷報を送り、張濬は「わずか八日で劇賊を平定した」と感嘆、高宗に奏上した。高宗は詔を下して岳飛を賞賛し、武勝定国軍節度使・京西路宣撫使・河南北諸路招討使兼営田大使に昇進させた。岳飛は中原回復の上疏を行ったが許されなかった。
- 張濬は高宗に韓世忠・岳飛を重用すべきと進言し、自らは襄・漢・川・陝の軍務督理に赴いた。高宗は韓世忠を京東淮東路宣撫処置使として楚州に、岳飛を京西湖北路宣撫副使として鄂州に配置した。
- 楚州は金軍の破壊で荒廃していたが、韓世忠夫妻が自ら労役に加わり士民を励まし、半年で軍府を一新、遠近から人が集まり重鎮となった。高宗はこれを喜び詔で褒めた。
- 岳飛も鄂州に駐屯し、高宗は武昌の要衝としての重要性を説く詔を下し、金の動静を探るよう命じた。
評語
なし