大宋中興通俗演義第二十七回 劉子羽、四川防衛を議す (劉子羽議守四川)
楚州の囲みを解く
- 建炎四年秋八月、岳飛は詔を受け楚州へ急行。すでに鎮撫使趙立は戦死しており危機的状況だった。
- 金の撻懶が攻城中のところへ岳飛軍が到着。王貴・傅廣が両翼から攻め、傅廣は金の高太保の流星錘で負傷したが、岳飛が自ら高太保を一槍で討ち取った。
- 撻懶は敗れて秦州へ退却。岳飛は楚州へ入城し安撫、虜将阿主孛堇ら七十余人を生け捕り、行在へ送った。
- 高宗は岳飛の忠勇を賞する詔を下し、金注碗などを下賜した。
岳飛への相次ぐ勅諭
- 江東宣撫使劉光世の部将王滿德も撻懶軍を破り、高宗は重ねて岳飛に勅諭を送り、劉光世軍と協力して衛州方面の金軍掃討に当たるよう命じた。
富平の戦いの大敗
- 金の撻懶は延安で婁室と合流し勢力を盛り返した。張濬は熙河・秦鳳・涇原・環慶四路の兵と吳玠の軍、計四十万を集め劉錫を統帥として迎撃しようとした。
- 前軍統制王彦や劉子羽、吳玠・郭浩らは要害を固めて敵の疲弊を待つべきと諫めたが、張濬は聞き入れず富平に進軍した。
- 趙哲の献策で澤口に兵を分け迎撃したが、金の撻懶・婁室は両路から攻め、澤口の趙哲軍が崩れたことで戦線全体が崩壊。宋軍は大敗し、輜重・衣甲を多数失った。
- 張濬は敗因を悔い、趙哲を軍法により斬首、劉錫も罪を問われたが弁明により合州へ配流にとどめられた。
- 敗戦後、張濬は興州へ退いたが、劉子羽は夔州への遷徙論を強く退け、興州に留まって関中との連携を保つべきと説いた。張濬はこれに従い、劉子羽を秦州へ遣わして散った将兵十余万を再結集させ、吳玠を鳳翔大散関に配して来路を断つなど、四川防衛の態勢を立て直した。