大宋中興通俗演義第二十八回 宋の高宗、東宮の設立を議す (宋高宗議建東宮)

秦檜の帰還と偽りの脱出譚

  • 撻懶は四川攻略に窮し、参軍秦檜の献策を聞く。秦檜は内側から宋を切り崩す策を献じ、自分を金から宋へ帰し、双方の情報を密かに撻懶へ流す密約を持ちかけた。撻懶は妻子を人質にと求めたが、秦檜は逆にともに帰ることで信用を得られると説き、撻懶はこれを大功と見て承諾した。
  • 建炎四年冬十月、秦檜は妻子を連れ越州の行在に至り、金の見張りを殺して脱出したと偽って報告。群臣は距離・経路の不自然さや妻子同伴を怪しみ、高宗も疑ったが、範宗尹・李回が秦檜を弁護し、高宗は結局これを信じた。
  • 秦檜は二帝・太后の消息(太后鄭氏の崩御など)を奏上し、「南は南、北は北とし和議を結ぶべし」と説いた。高宗はこれを喜び、秦檜を礼部尚書に任じた。

劉豫の擁立と太子選定の議

  • 金は宋の異姓有力者を中原の主に立てる旧例(張邦昌の故事)に倣い、劉豫を「大齊」の子皇帝に立てた。
  • 高宗はこれを聞いて憂え、範宗尹の勧めで太祖の子孫を宮中で養育し儲嗣に備える議が起こる。上虞県丞婁寅亮の上書も、太祖の子孫から賢者を選び皇嗣に備えるべきと説いた。
  • 高宗はこれに感じ入り、趙鼎の勧めもあって、秦王徳芳の五世孫・子偁の子である伯宗を選び張婕妤に養育させることとした。あわせて張濬・岳飛にそれぞれ関陝・荊襄の防備強化を命じた。

曲端の投獄

  • 張濬は金の福津侵攻・同谷蹂躙を受け張探・劉子羽らを配して防備を固める一方、曲端を万安軍から召還し登用しようとした。
  • 王庶と吳玠はそれぞれ曲端の驕慢さや旧怨を理由に反対。吳玠は「曲端謀反」の四字を書いて張濬に示し、王庶も曲端が張濬を諷した詩句を証拠に挙げた。
  • 張濬はついに疑いを抱き、曲端を恭州の獄に送って審問させることにした。