大宋中興通俗演義第三回 師中、殺熊嶺で大いに戦う (師中大戰殺熊嶺)
金の再侵攻
- 金の太宗は、宋が三鎮を約束通り割譲せず軍備も怠っていると知り、これを口実に大太子粘罕・斡離不を左右副元帥として二十万の兵を南下させ、再侵攻を開始した。宋は依然備えなく、金軍は無人の地を行くように進んだ。
種師中の太原救援と殺熊嶺の敗死
- 都に急報が入ると、中丞許翰は種師中に太原救援を命じるよう奏上し、欽宗は使者を送った。
- 種師中・姚古・張顥らは持久策を協議していたが、朝廷から「逗撓(軍機を怠った罪)」を責める使者が来たため、種師中はやむなく単独で二万の兵を率いて太原救援に向かった。
- 斡離不は真定方面へ迂回して都を衝く策に転じ、金将完顏活玄に種師中の別動隊を迎撃させた。
- 種師中軍は殺熊嶺で完顏活玄と交戦して一度は打ち破ったが、姚古・張顥の援軍が虚報による混乱で遅れて到着せず孤立。金の大軍に包囲され、種師中は力戦の末、全身に傷を負って討ち死にした。諸軍はこれにより意気を失った。
汴京陥落
- 金軍は種師中を討った勢いで太原・汴京への攻囲を強め、道士まがいの郭京らが「奇門遁甲」による撃退を請け負ったが実際には門を開けて逃亡し、宋軍は大敗した。
- 金兵は城壁に迫り、統制姚仲友や何彥慶らが奮戦するも討ち死にし、危機に際して張叔夜が援軍を率いて入城、父子で金将を討ち取る戦功を挙げたが、大勢は覆らなかった。
- 張叔夜は帝に襄陽への避難を進言したが、欽宗は決断できずにいるうち、翌日金軍は総攻撃をかけて南薰門などを突破し、汴京はついに陥落した。
- 欽宗は「種師道の言を用いなかったためにこうなった」と嘆いた。かつて種師道が金軍撤退時に追撃を進言したのに容れられなかったことが、ここで的中した形となった。
評語
後世の儒者が史を詠んだ詩は、宋の記録を振り返れば結末は初めから見えていたと述べ、和議に浮かれて防備を怠り、事が起きてから初めて後悔したこと、また忠言を用いず亡国を招いたことを惜しんでいる。