大宋中興通俗演義第四回 金の粘罕、誓書を求める (金粘罕邀求誓書)
劉韋合の殉節
- 粘罕は使者を送って両朝の皇帝に金営で和議を議するよう求め、朝廷は劉韋合を交渉役に立てた。
- 粘罕は劉韋合の人柄を惜しみ、部下の韓正を通じて厚遇の宴を設け、金に降って重用されるよう勧めさせたが、劉韋合は「二君に仕える忠臣はいない」と拒絶し、書き置きを残して自ら縊死した。
- 粘罕はこれを聞いて「劉相公は真の忠臣である」と嘆じ、丁重に葬らせた。
汴京の略奪と苛烈な取り立て
- 金軍は書籍・戸籍図・法物・儀器などを根こそぎ運び去り、京師は大雪と飢饉に見舞われ、民は困窮を極めた。金兵は富家を掠奪し、若い女性を選んで後宮に差し出すよう強要するなど、民衆は塗炭の苦しみを味わった。
- 靖康二年正月、粘罕は莫大な金銀の追加供出を求める榜文を掲げ、応じなければ厳罰に処すと脅した。朝廷はやむなく開封府尹何栗に民間から金銀を根こそぎ徴収させたが、それでも要求には遠く及ばなかった。
廃立の要求と欽宗の金営行き
- 金は「開封を都に留めることは許さず、趙氏の別の者を宋王に立て、太上皇を天水郡王、少帝を天水郡公とせよ」との北国皇帝の詔書を突きつけた。
- 欽宗は動揺しつつも侍郎李若水らの勧めで、やむなく金営へ赴くことを決意し、十一日、民衆の必死の制止を振り切って出城した。
- 金営では粘罕に応対され、退位・廃立を承服する誓書に署名させられた。以後数日間、粘罕の陣中に留め置かれ、寒さと孤独の中で過ごした。
- 金側は宋の宗室から新たな王を選ぶことや、宮室として使う寺院の手配などを指示し、欽宗はようやく都に戻る許しを得たが、金兵による略奪と民の苦しみはなおも続いた。