大宋中興通俗演義第五回 宋の徽宗・欽宗、北の沙漠へ連れ去られる (宋徽欽北狩沙漠)

康王擁立の議と再度の金営召致

  • 帰城した欽宗は太上皇や太后と再会し、康王を新たな皇帝に立てて宗社を保つべきことを話し合った。康王の母韋妃は、外に主を仰ぎつつ四方に勤王の詔を発するよう勧めた。
  • 議論が定まらぬうちに粘罕から再び太上皇・欽宗双方を金営に呼び出す使者が続き、欽宗はやむなく単身で金営へ出向いた。

二帝の幽閉と離別

  • 金営で欽宗は、金が別の宗室を王に立てる決定を伝えられ、粗末な部屋に幽閉された。翌朝、太上皇(徽宗)が別の道から連れ去られるのを目にし、悲嘆にくれた。
  • その後、欽宗も太上皇と再会したが、粘罕は二帝に金の常服への着替えを強い、これに侍郎李若水が激しく抗議して金兵に殺害された。李若水は最後まで屈服を拒み、舌を切られてなお罵り続けて絶命した。同じく司馬樸も殉じて絶食死した。

北行と朱后の死

  • 粘罕は張邦昌に偽の帝位を継がせ、太上皇と少帝(欽宗)、朱后らを北へ護送させた。二帝は粗末な扱いを受けながら黄河を渡り、途上で辱めを受けるなど艱難を極めた。
  • 燕京に至り金主に藩臣の礼で謁見した後、驛舎に留め置かれ、朱后は屈辱に耐えかねて自ら命を絶った。二帝は昏德公・重昏侯の屈辱的な封号を与えられ、さらに甘粛、靈州、五国城へと次々に流された。
  • 道中、二帝はそれぞれ望郷の詞や絶句を詠み、亡国の悲しみと望郷の念を吐露した。

康王への密書

  • 五国城で二帝は、たまたま漢人の忠義の士(周忠の子)と出会い、これを通じて康王へ宛てた密書を託した。かつて金営で衣領に隠して書いた文字を、この者に届けさせたのである。

評語

語り手は、この密書が後に康王が中興を果たす端緒となったと述べ、もし康王が小人に惑わされず岳飛らの将を用い続けていれば、金にこれほど気勢を上げさせず、宋室はもっと早く復興し、徽宗・欽宗が沙漠に流されるような事態も避けられただろうと惜しんでいる。