大宋中興通俗演義第二回 李綱、金軍への備えを講じる (李綱措置御金人)
李綱の防御態勢
- 車駕の出発が取り止められた後、李綱は都城四壁の防備を本格的に整えた。壁ごとに正兵一万二千余人を配し、楼櫓・氈幕・炮・弩牀・磚石・檑木・火油など防具を整え、宗室や武臣を提挙官に任じて守備を固めたため、兵勢は張り民心も安定した。
金軍の猛攻と撃退
- 金将斡離不は牟駝岡に布陣し、夜には火船で西水門を攻めたが、驍将霍超らの活躍と李綱自らの督戦により撃退した。
- 翌日以降も酸棗門を中心に激しい攻防が続き、霍超は出撃して金将を討ち取るなど奮戦し、金兵に多大な損害を与えた。李綱は将士を厚く賞し、士気を高めた。
- 斡離不は攻めあぐね、これ以上の力攻めは危険と判断し、和議を持ちかける使者を送ることにした。
和議の開始と屈辱の交渉
- 朝廷では李邦彥が割地講和を主張し、李綱は金軍が孤軍で深入りしていることを説いて抗戦継続を勧めたが、欽宗は講和に傾き、李棁を正使として金営に派遣した。
- 李棁は斡離不の前で萎縮し、黄金五百万両・白銀五千万両・馬牛・絹などの莫大な要求と、宋を臣従させる屈辱的な条件、さらに三鎮の割譲と人質の要求をそのまま持ち帰った。金人はこれを見て宋の使者を侮った。
- 李綱は要求の非現実性と三鎮割譲の危険を説いて反対したが、李邦彥・李棁に押し切られ、朝廷は財を根こそぎ集め、太宰張邦昌と康王を人質として金営に送った。
- 康王は毅然とした態度と武芸の腕前から却って金側に「本物の親王ではないのでは」と疑われ、代わりに肅王が人質となり、康王は帰還を許された。
勤王軍の到着と機を逸した和議
- 種師道・姚平仲ら勤王の兵二十万が集結し、李綱は金軍の孤軍である弱みを衝いて包囲殲滅する策を欽宗に献じ、いったんは容れられた。
- しかし姚平仲が独断で夜襲を敢行して失敗し、さらに李邦彥が和議を優先させて諸将の出撃を禁じたため、金軍は無傷で北へ退いた。
- 姚平仲は責を負って出奔し、後年道士として山中に隠れ住んだと伝わる(陸放翁がその後日談を詩に詠んでいる)。
- 金軍撤退後、朝廷は油断して軍備を怠り、種師道は後患を予言しつつも辞職を許され、中丞許翰の再三の諫言も容れられなかった。