大宋中興通俗演義第一回 斡離不、兵を挙げ南へ侵攻する (斡離不舉兵南寇)
開巻の詩
(詩:天地開闢から三皇五帝、夏殷周、戦国、秦漢、三国、両晋、南北朝、隋唐、五代を経て宋の統一に至るまでの中国王朝史を概観する詩)
徽宗の失政と金軍の侵攻
- 宋の徽宗は土木事業に耽り贅を尽くし、佞臣を重用して忠臣を退けたため、民の怨みが積もり各地で盗賊が蜂起していた。
- そのうえ金と結んで遼を滅ぼしたことが災いし、金の太宗完顏晟は斡離不・粘罕の二軍を東西から南下させ、河北・河東を経て一気に汴梁(開封)に迫った。
- 宋は久しく戦を知らず、賢相・勇将を欠いていたため、なすすべもなく金軍の侵入を許した。
欽宗への譲位
- 金兵が汴梁に迫ると朝廷は動揺し、和議の使者を送る一方で天下に勤王の兵を募った。
- 太常少卿の李綱は給事中の呉敏と謀り、皇太子を単なる開封府牧に留めるのではなく、譲位を受けさせて宗社を守らせるべきだと説いた。
- 呉敏がこれを徽宗に奏上すると、徽宗は納得して皇太子に譲位を告げた。皇太子は固辞して病を発したが、結局は即位し、これが欽宗である。朱氏を皇后とし、徽宗は道君太上皇帝として龍徳宮に移った。李綱は尚書右丞相などに任じられ、年号を靖康と改めた。
- 李綱は欽宗に対し、金が和議に際して要求してくるであろう五つの事柄(尊号・帰朝人の引渡し・歳幣の増額・犒軍の品・領土の割譲)を予測し、領土以外は譲歩してもよいが国土は死守すべきと進言し、欽宗はこれを容れた。
都落ちの危機と李綱の諫止
- 斡離不は黄河を渡って迫り、宋軍は各地で敗走した。道君太上皇はいち早く都を脱出しようとし、群臣も動揺した。
- 李綱は帝に翻意を促し、都城を捨てるべきでないと諫めた。太宰の白時中らは守り切れないと反論したが、李綱は城壁・濠の実地を確認したうえで、守備は可能であり、将兵を鼓舞し勤王の軍を待つべきだと説いた。
- 帝は誰を将とするか問い、李綱は白時中らに任にあたらせるべきと進言したため白時中は激怒したが、結局李綱自身が尚書右丞兼親征行営使に任じられ、都城防衛の任を背負うことになった。
- その後も出奔を勧める声が上がり、帝は一度は避難を決意しかけたが、李綱は死を賭して諫め、また禁衛の兵に守城の意志を問うと、皆「死を以て宗社を守る」と応えたため、帝はついに都に留まる決意を固めた。
評語
後人はこの場面を詩に詠み、李綱の一諫が天を動かし宋の宗社の存続を救ったとし、もし李綱以外の宰執だけであれば宋室は早くに滅びていただろうと称えている。